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07 アーカイブス資料館 Archive

第一回日韓スタツア in 1967

久しぶりのアーカイブスです。

1962年にアイセック・ジャパンが設立された同じ年に韓国でもアイセックが設立されました(両国とも来年は設立50周年を迎えます)。日本にとって最も近い国である韓国との交流は、1960年代の当時(日韓国交正常化の条約締結は1965年12月)、引き受け企業が殆どなかったためにアイセック本来の活動である研修生の交換がとても困難な時代でした(当時は、相互交換なので、韓国に研修生を送出すには、韓国の研修生を日本の企業で引き受けてもらうことが必須でしたが、日本の学生を引き受けてくれる韓国企業がなく、また韓国の学生を引き受けてくれる日本の企業もほとんどありませんでした)。

そこで、研修生の交換に準じるようなスタディ・ツアーを日韓両国で実施しようと、アイセック・ジャパンのイニシアティブの下、当時の日韓関係を考えると画期的な「日韓交流スタディツアー」企画が1967年に実現したのです。この年の8月1日にアイセック韓国の参加者33名が羽田に到着。日本側が用意した東京、名古屋、大阪、広島、山口各地での工場見学、会社訪問、セミナー等10日間の研修プログラムに参加したのです。

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8月11には小倉で日本側参加者32名と合流して船で一緒に釜山に渡り、そこからは韓国側が用意したプログラムで日本のアイセッカーが釜山、蔚山、慶州、大邸、ソウルと8月23日まで12日間の研修旅行を体験しました。

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70東京コングレスの写真

1970年3月8日?20日にAIESEC International Congress が東京の八王子セミナーハウスで開催され、世界各国から230名の代表が参加しました。このとき、約1万件に及ぶ研修生の交換を約40時間<IBMシステム360シリーズ>を借りて行ったのですが、その時、コンピュータ・マッチングチームの一員だったRichard Karash氏(MIT)から当時の懐かしい写真を送ってきましたのでご紹介します。尚、彼はやはりAIESEC Alumni の奥様とセンチメンタル・ジャーニーと称して8月12日から10日間、東京と京都を訪問されますので、その間に当時のコングレス委員長だった玉越良介氏(TOLC/1970)とお会いすることになっています。

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(左から、玉越、板東、草刈、尾関、鈴木(福)の各氏で右のお二人は分かりません)
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(左から、Jay Wurts、草刈、尾関、横山、Karashの各氏)
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AIESEC-JAPAN NEWS No. 7 (1967年発行) より

「アイセックの将来に望むもの」
      加藤幹夫
      国際文化会館・常務理事

1960年の夏、ペイジとハインツというエール大学の学生によって、はじめてAIESECなるものが日本に紹介された当時から、日本におけるAIESECの成長を視察してきた私にとって、現在のAIESEC-Japan の隆盛をみることは、この上ない喜びである。
1962年はじめてAIESEC-Japan が海外に送り込んだ研修生の数は7名にすぎなかったが、1965年度において、西ドイツとの特別交換研修生98名を含めて、125名におよんでいる。さらに明年度には、アメリカとの大規模な特別交換計画が実現される見通しがつぎ、また1970年度には、International AIESEC Congress を日本に招聰しようという計画が進められているとも聞く。このような驚異的なAIESEC-Japan の成長が、財界をはじめとして、その他各方面からの援助があったとはいえ、学生達の手だけによっておし進められてきたという事実は特筆されなければなるまい。しかし交換研修生の量的な増大が、そのまま研修プログラムの質的な向上と必然的に結びつけて考えることは危険である。1962年にAIESEC-Japan が正式に発足してすでに5年たち、国内組織の地固めの仕事が一応終えた現在、今後の努力の目標としなければならないことが何んであるかを、じっくりと検討してみる必要があろう。私は今まで、局外者としての立場からだけしかAIESEC-Japan に関係しなかったため、内部の具体的な運営実情は全く知らないが、私なりに考えている今後のAIESEC-Japan のあり方、努力の方向などについて若干の指摘をしてみたいと思う。

AIESEC-Japan が正式に発足してすでに5年たち、国内組織の地固めの仕事が一応終えた現在、今後の努力の目標としなければならないことが何んであるかを、じっくりと検討してみる必要があろう。私は今まで、局外者としての立場からだけしかAIESEC-Japan に関係しなかったため、内部の具体的な運営実情は全く知らないが、私なりに考えている今後のAIESEC-Japan のあり方、努力の方向などについて若干の指摘をしてみたいと思う。

先ず第一に指摘したいことは、研修参加学生の語学力の問題である。過去2年間研修生選衡委員として、直接学生諸君の外国語に接する機会を持ったが、研修応募者の一割足らずしか、外国の企業組織の中に入り込んで何かを学びとって帰るのに充分な語学力を備えていないのはほんとうに残念である。いくら旺盛な問題意識を持っていてもコミュニケーショソのための手段となるものに欠けていては、国際仕会においてはいかんともしがたいのである。とくに、AIESECにおけるプログラムは、最近急増をみせている他のいろいろな学生の海外旅行プログラムとは質的により高度なものだけに、研修参加者に要求される語学力も高いものとなるわけである。従来、日本の社会においては、外国語のできる入間は、通弁といういささか軽蔑のニュアンスのこもった言葉で呼ばれ、インテレクチュアルな社会からは毛嫌いされてきた傾向があったが、スパーソニックの二十世紀の後半の社会では、外国語、特に英語で自己を表現する能力を備えることは、教育ある人間のミニマムな条件となりつつあるのである。さりとて、私はAIESECの研修参加者の語学力を向上させるための妙案を持っているわけではない。しかし、オリエソティーションの中に、比較的長期でしかも可成りインテンシブな語学コースを導入するとか、LC単位で、AIESECのメンバーのための語学研修コースを設けるとかの方法によって、可成りの成果を期することができるではないかと思う。

第二に指摘したいことは、アジア地域内における研修生交換、協力の促進体制の確立ということである。Quebec Congress の決議に基づいて、ようやく今年度からAsian Coordination OfficeがAIESEC-Japan 内に設立されるようになり、手初めとして、日韓の交流が実施されたようであるが、世界第三の産業国としての日本からして、アジア低開発国からの研修生受け入れは、もっと、もっと大規模に行われなければならない。AIESEC-Japan News No.6 「アジアとの交流」によると、1970年におけるアジア地域との研修生交換は24?5名となっているが、この数字はあまりにも少なすぎるのではないか。勿論、日本以外のアジア諸国においては、NCの組織が確立されている国が少ないこと、AIESEC の研修生交換は一対一を原則としていることなどの技術的な問題はあるが、AIESEC-Japan が積極的なイニシアティブをとれば、アジア地域内部における特別交換プログラムをAIESEC International に認可させるにはさした困難もないだろう。欧米からの研修生なら引き受けるが、アジア地域からの研修生ならお断りだという日本の企業が現在のところ大部分であるらしいが、こう云う点についても、積極的に打破する努力を続けなければならないだろう。さらに、中国が現状のままで長く国際社会から孤立していくことは考えられないのであるから、将来、中国が国際社会へ復帰した際における状態をも含めたアジア地域における交流ということを考えておく必要もあろう。年間の平均一人当たり所得が100ドルそこそこの国が大部分を占めるアジア地域における交流協力体制を組織化するにあたってのAIESEC-Japan の責任は重大である。経済実務の各種の分野において、十分な訓練をうけたAIESECのOB たちを、年間100名位の割合で、アジアの諸地域にアメリカのPeace Corps のような形でAIESEC-Japan が送りだせるような日が1日も早くきて欲しいものである。

私がAIESEC-JAPANの今後に望みたい第一の点は、事務局の恒久的体制の確立、即ち、AIESEC-Japan の財団法人化を目ざすということである。AIESECが、学生だけの手によって運営されることに勿論、大きな意義があることは十分認めるが、増々拡大していくAIESECの諸活動に伴う、事務的な仕事の増大と複雑化は、学生の負担を増々重くしていくし、また予算額の増大に対する外部からの不安を生じさせないようにするためにも、恒久的なSecretariatの体制を確立することは急を要するように思われる。過去5年間の歴代の委員長の大部分が、学業を投げうって、AIESEC の事務的仕事に奔走しなければならなかったのは、創設期における例外的なものであり、止むを得なかったものとしても、やはり、本末転倒の感はいなめ難い。勿論、恒久的な Secretariat の体制の確立が、学生のイニシプチブを殺すようなことが生じないように充分な注意と考慮が払われなければならないが、Secretariat体制の確立は学生の負担を軽減し、プログラムの質的向上に資すること大であることは明らかである。

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日独研修生特別交換から40周年 つづき

10月21日
西独大使館主催パーティー
麻布の大使公邸にて大使の御臨席のもとに、カクテルパーティー形式のパーティーが催され美しいお庭を背景に西独研修生ほぼ100名前後が主席し、なごやかなパーティーが行われました。当日は日本より西独へ派遣しました日本人研修生も多数参加し、ふりそで姿の女性も交わり、誠になごやかな日独交歓の夕べでありました。

10月31日
ニケ月の研修及び九州旅行
その他一切のプログラムを無事終了、この日を最後に帰国
離陸を前に18時より2時間、東急ホテルの御好意により羽田東急ホテルのトップ・オブ・ハネダにてサヨナラパーティーを開催、当日多数の御来賓の御出席の他約250名の企業の方々、民宿関係の方々等が御参加下さいまして誠に盛大なパーティーとなりました。式は受入委員長の司会で始められ、川中日経連理事(諸井貫一後援会会長代理)、木村協会長、日本委員会委員長、Shulz ドイツ委員会代表の拶挨の後、日独両委員会の記念品の交換にてその幕を閉じました。
予定より約40分遅れて、11時10分頃研修生全員、ルフトハンザ・ボーイング707の爆音と共に日本での楽しい思い出を胸に日本を去って行きました。

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日独研修生特別交換から40周年 

今年は、1966年夏に実施した「日独研修生特別交換」から丁度40周年という節目の年です。この年に来日した94名のAIESECドイツ人研修生のリストをドイツのアルムナイに送り消息を調べてもらっているところです。又、ドイツで研修を受けた98名の日本人研修生に関しましても、OBAIESEC事務局で消息を調べており、現在のところ半数の方々が判明しております。40周年を記念して何か企画をと、AIESEC現役生と一緒に検討しているところです。

下記は、1967年4月に発行された「日独研修生特別交換計画報告書」からの抜粋です。

序  

昭和41年度日本委員会委員長 井上秀樹(慶應義塾大学経済学部)

1965年10月より当日本委員会とドイツ委員会との間で実行に移されました140名にのぼる相互交換「日独研修生交換計画」が実り豊かな結果を得て、無事に終了しましたことをご報告できますのは、私共にとって、誠に大きな喜びでございます。同時に、この計画を実現するべく当協会によせられました、教育界、経済界ならびに政府関係からの深い御理解と御援助に感謝しております。

ご挨拶

国際経済商学学生協会会長 木村重義(東京大学経済学部教授)

国際経済商学学生'協会日本委員会は発足以来5年目を迎え,その活動は軌道に乗ってまいりました、特に今年度におきましては,皆様の御協力,御援助の下に1日独研修生交換計画」が実施されおかげをもって多大の成果をあげて,無事終了致しました。
本計画を通して得られた多くの経験は将来,国際舞台に立って活躍するであろう学生諸君にとって,たいそう貴重なものであったに相違ないと信じます。学生諸君がこの経験を無駄にすることなく,将来種々の方法で国際社会および我国経済界に学界,政界および産業界に還元することは疑うべくもなく期待できると存じます。
本計画がこのように成功裡に終ることができましたのも関係各方面の方々の深い御理解の賜物かと存じます。ここに厚く御礼申し上げるとともに,本特別計画遂行の報告を致したいと存じます。
今後とも変らない御指導,御援助を賜わるようお願い申し上げます。

ご挨拶

日独研修生交換計画後援会会長 諸井貫一(日経連代表幹事)

国際経済への道を歩み続ける日本にとって今日程,新しい国際経済人,育成の必要を痛感する時はありません。
かかる状勢の下,今年度国際経済商学学生協会の特別計画でありました「口独研修生交換」は政界,財界,学界の一体となった御支援又日独両国委員会の努力により順調に全計画を終了いたしました。140名にのぼる若きエネルギッシュな学生が送り出され叉,受け入れられ企業研修,国際セミナー等を通じて両国の親善,相互理解を深め併せて学生の国際的視野を啓発するという大いな
る成果を上げました。
本企画の成功は国際経済商学生協会にとってのみならず広く日本経済全体にとっても,画期的飛躍をもたらすものと信ずる次第です。この企画に深いご理解を示され,御賛同下さった後援会の方々並びに各方面の方々に深く感謝しております。
今後共に,これからの若い世代のエネルギッシュな活動に更に暖かい御支援の程をお願い申し上げます。

「日独交換計画経過報告」  日本委員会事務局長 清水雅樹(慶応義塾大学商学部)

1965年6月、AIESECドイツ委員会より日本委員会に対して、1966年の夏休みを利川致しまして、150名の研修生交換特別計画の申し入れがありました。
日本委員会はこの計画の実現可能性を検討致しました結果、7月には、日独研修生交換特別委員会を発足させ、活動を開始致しました。ドイツ側では外務省より当計画に対する援助約10万マルクも決定され、リュブヶ、エアハルト、シュミッカー、アプス、モムゼン等、文字通り有力者の方々が後援され、日本人研修生の受け入れには

万全を期し、準備しました。同年10月、当協会理事会に日独研修生交換特別計画が取り上げられ、日本側からも積極的な本計画の推進が正式に決定されました。その後、外務省、文部省、通産省、経済四団体、日本ユネスコ国内委員会、日独協会、ドイツ大使館を始め、関係各方面からの御援助を頂き、同年12月15日、丸の内銀行倶楽部において、日独研修生交換計画後援会設立発起人総会が開かれました。同会議におきましては、日本経営者団体連盟代表常任理事である諸井貫一発起人代表より、本計画の趣意が述べられると共に、内田駐独大使より、西独政界、財界、学界が一体となり、真に本計画の実現を希望している旨の報告がなされました。財政面では本計画を実行する上に、西ドイツ政府から補助金が出されることに決定し、日本におきましては、民間企業からの寄附金は経済界の実情を勘案し、一口弐万円として、一口ないし二口程度の御協力を多数の方々から頂く心組で、御援助を依頼致しました。当計画後援会、会長には発起人代表であります、日経連代表常任理事の諸井貫一氏、顧問には、経団連会長の石坂泰三氏、日商会頭の足立正氏、経同友代表幹事の木川田一隆氏、椎名外務大臣、三木通産大臣、中村文部大臣、増田一橋大学学長、永沢慶応大学塾長、大河内東京大学総長、大浜早稲田大学総長、小泉上智大学学長、上野京都大学学長、星名同志社大学学長、東都知事、井上京都市長の各氏に御願い致し、常任理事には日経連専務理事の前田一氏、経団連事務総長の堀越偵三氏、日商専務理事の高城元氏、経同反事務局長の山ド静一氏、及び、当協会会長の木村重義東京大学教授、同じく常任理事の山本登慶応大学教授、板垣与一一橋大学教授、中島正信早稲田大学教授の各氏に御願い致しました。

選衡及びオリエンテーション
広く全国から優秀な学生を送り出すため、この計画の研修生募集は、全国公募という形で行なわれました。書類及び論文による一次選衡を経ました後の面接による東京地区の選衡は、1月14日15日の両日、国際文化会館で行われました。選衡委員には,当協会会長・木村重義東京大学教授をはじめ、中島早稲田大学教授、ドイツ大使館からMr.Lehr, Goethe Institut から Mr.Fellmann,Council of Student TravelからMr.Langston,国際文化会館の加藤幹夫氏、千沢忠彦慶応OB、それに国際経済商学学生協会・日本委員会野口委員長、井上副委員長諸氏になって頂きました。
審査の基準は語学能力、学問的背景、一般常識、人間性の四部門に対して採点され、厳重なる審査の結果、東京地区46名の合格者が決定されました。関西地区においても13・14日の両日、同様な形式で審査が行なわれ、21名の合格者が決定されました。
合格者の内訳は、慶応、東京、一橋をはじめ、上智、小樽商科、東京都立、学習院、明治学院、武蔵、早稲田、聖心、立教、中央、青山学院、,南山の15大学、関西におきましては、同志社をはじめ京都、関西学院の3大学の学生でございます。応募者の比較的少なかった大学、及び全く応募者の無かった大学からは3月中に、各大学より研修生を推薦していただき決定しました。
合格者のために東京では、3月5日、第一回目の関東地区オリエンテーションが開かれ、国際学生技術研修協会、日本国際医学生交流協会の学生も含めて、53名の学生が国際文化会館の講堂に集り、国際経済商学学生協会・西独企業研修生派遣団を結団致しました。

派遣団員
日本より西ドイツに派遣する学生は、当初、国際経済商学学生協会所属の学生のみで行う予定でございましたが、広く西ドイツとの親善を計るために、技術系の学生団体である国際学生技術研修協会(IAESTE)、及び医学系の学生団体である口本国際医学生交流協会(JIMAS)との賛同共催を得て、下記の如く広範囲にのぼる学生を送る事となりました。

1.団長山本登慶応大学教授1名
2.国際経済商学学生協会派遣学生98名
3.国際学生技術研修協会派遣学生35名
4.日本国際医学生交流協会派遣学生5名
合計139名

当協会ドイツ委員会代表 Brukhurt Shulz氏の来日
本計画の最終的事務折衡のために、去る2月4日に当協会ドイツ委員会より派遣されたBrukhurt Shulz氏が来日致しました。Shultz氏は、当計画後援会会長の諸井貫一氏、外務省牛場審議官、咲山日本青年商工会議所事務局長、原東京銀行頭取、北島大日本印刷社長の皆様方に御会い致しまして、日本側の受け入れ体制は、ほぼ整ったものと確信して2月23日に無事帰国致しました。

国際会議出席
!966年1月9日の国内会議において、野口日本委員会委員長、西脇日独研修生交換特別委員会副委員長、及び関西地区より、寺西関西地区委員長を1966年2月28日より3月11日の間に、イスラエルのティル・アヴィウで行われる国際経済商学生協会・国際会議に派遣する事を決定し、去る2月26日イスラエルに向けて出発致しました。この国際会議において、通常の研修生交換と、1966年の西ドイヅとの研修生交換特別計画が承認され、8月31日から9月4日まで行われたModernization in Asia and its Perspectiveのテーマのもとに行われたセミナーが、国際AIESEC
のインターナショナル・セミナーとして承認されました。

以下、当企画の準備は着々と進み受入委員会、派遣団報告となります。

「西独企業研修生派遣団報告」 派遣団委員会委員長 川島宣征(早稲田大学政経学部)

国際経済商学学生協会・日本委員会及びドイツ委員会の問で企画された「日独研修生交換特別計画」により、今年6月30日、日本側学生団長をふくむ139名はルフトハンザのチャ?ター機で羽田を出発致しました。

派遣団の構成は
国際経済商学学生協会(AIESEC)  98名
国際学生技術研修協会(IAESTE)  35名
日本国際医学生協会(JIMSA) 5名
山本登団長 1名
計139名
であり、派遣に先だち各協会で応募者の選衡を行い、4月?6月英語ドイツ語の講習に参加し、派遣にそなえました。

当協会が長らくの念願であったチャーター機によるなるべく多くの研修生をなるべく安い費用で送り出すという企画は、ここに実現されたわけで各研修生の往復の渡航費は、19万5千円と普通の費用の半額以下で渡航ができ、この企画の実現により従来より広い範囲の学生に、海外企業研修を受ける機会を与えることができたのは、当協会の喜びとするところであります。
出発に際して29日にドイツ大使館主催の研修生に対するレセプションが青山の0・A・Gで行われ、地方からの参加者はこの時までに東京に集合し、出発に備えました。

7月1日朝ドイツのケルン空港に到着。1日?3日はドイツ委員会主催のドイツ紹介セミナーがケルン大学を中心に行われ、ドイツについてのいろいろな各度からの紹介が行われ、その間、内田駐西独大使の講演、ドイツ連邦省Dr.B6hnの講演を始め、映画などがありました。
7月4日にケルンをはなれ、各研修生はそれぞれの研修地に出発し、2ケ月の企業研修へと旅立ってゆきました。研修地はベルリン、ハンブルグ、ブレーメン、エッセン、ブラオンシュバイグ、ベセリング、エソネペタル、ゲーベルスブルグ、ニーハイム・ヒュステン、シュベルム、ヴィッテン、ノイス、ノイキルヒェン・フィルエン、デュスブルグ・ハンボーン、デュッセルドルフ、レーベ:ルクーセン、ミュンヘソ、フランクフルト/マイン、タルムシュタット、フリードリッヒサーフ毛ン、カールスル一工、フロツハイム、ニュールンベルグ、マインツ、ステユットガルド、マンハイム、エルランゲン、ケルン、フライブルグ、オーベルハオゼソ、ボン、ウルム、ザールブルッケン、ハノーバーなど西ドイツ全域にわたっており、各地区での研修生はその地区の地区委員会の紹介で、それぞれ会社・下宿へと分散しました。

初めての外国生活を経験する人がほとんどですので、研修開始にあたってかなり不安をもつ人が多かったと思われます。会社とドイツ委員会との連絡がうまくとれでおらずに、多少困乱した研修地も数少なくではありますがありました。もっとも大きな、そして数多く起った問題は、やはりドイツ語の事でして、かなりな程度のドイツ語を学習していっても、企業側がドイツ人と同じくらい話せる事を要求する例が多く、国民性のちがいをてきびしく感ぜさせられました。
研修生はD.M.400を、一ケ月の給与として受けとり、その中から下宿代・食費などを支出して生活するのですが、地区により下宿代もまちまちであり、金が足らないので検約した研修生もあり、又お金が余まってしまって旅行した研修生もあります。
研修期間中の催しものとして、ドイツ・アイゼック名物のベルリン旅行があり、各地区の研修生は各国から集まっている外国人研修生と一緒に、バスに集って一週間のベルリン滞在旅行をしました。ベルリンは東ドイツ(ドイツ人は東ドイツといわずにソヴィエト占領地区と呼ぶ)の真中にあり、バスで行くには3本のアウトバーンの道以外を通ることはできず、しかも通過の手続は非常にやっかいで、3時間や4時間国境で待たされるのはむしろ普通の事となっています。ベルリンは体制というものを強く感じさせないではおかない都市であります。

9月3日に2ケ月にわたる企業研修を終えて各研修生は、4日から一週間のヨーロッパ旅行への参加のため、ケルンに集合し、4日からはベルギー、フランス、スイスへの旅行に出発しました。この旅行期間にも強く感じた事は、単なる見学旅行ではその国を理解するのは非常に困難な事である、ということです。その事は各研修生に「どこが一番印象深いか」とたずねる事によっても又知ることができます。すなわち各研修地をやはり、「一番印象深い」と、答えるでしょうから。
9月11日、ケルン空港で日本大使館のレセプションを最後に研修生はドイツを後にして、北極経由のルフトハンザで羽田へ向かいました。なお、帰りの飛行機に乗らずにドイツ滞在を続ける研修生が11名、飛行機出発より先に帰国したのが団長と研修生1名です。

今このように大きな成果をおさめて帰国した派遣団は、そのレポートを作成中であります。この計画の実現のために多くの方々に御支援、御協力を得ましたことを心から感謝するとともに、この紙面を借りまして御礼申し上げることが出来ましたら、まことに幸甚に存じます。
昭和41年12月

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研修の思い出 No. 6

第9代日本委員会委員長の山本裕二氏(WALC/1968)による研修の思い出です。下記のリンクからご覧下さい。

(インタビューは取り敢えず6回でしたので、このシリーズは暫くお休みになると思われますが、また、現役より依頼がありましたら研修経験者にインタビューのお願いを致しますので、その折にはご協力をお願い致します。)

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研修の思い出 No.5

OBAIESECer による「研修の思い出」の第5弾です。今回は、AIESEC Japan でいま最も研修生交換活動を頑張っている一橋LCの先輩で、MUハンズオンキャピタルの社長(インタビュー当時は、UFJつばさ証券副社長)である鈴木茂弘氏(1968卒)による研修時のエピソードや潰れそうだったHILCという話題です。下記のリンクからご覧下さい。

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AIESEC-ALUMNI 創刊号

OBAIESECの古い資料を整理していたら、1983年11月23日に発行された「AIESEC-ALUMNI - アイセック・アルムナイ」創刊号が出てきました。これには、この年の4月22日に平河町の全共連ビル・マツヤサロンで開催されたOBAIESEC総会の報告とOBAIESECの規約が掲載されています。また、OBAIESECの組織化に情熱を捧げながらも、この年の夏に急逝されたAIESEC JAPAN創設期の重鎮である岡本良毅氏を悼む先輩諸氏のメッセージも掲載されています。岡本氏のAIESECとOBAIESECへの思いを絶やすことなく継承していく意味でもアーカイブスに残しておきたいと思い掲載させていただきます。

「AIESEC-ALUMNI – アイセック・アルムナイ」創刊号 昭和58年11月23日
OB・AIESEC規約採択・新理事を選出
58年度総会 会費年間5千円を決定

58年度のOBAIESEC総会は、OB44人、来賓4人、現役3人の51名の参加により、4月22日、全共連ビル・マツヤサロンで開催され、新規約の採択、新理事の選出及び年会費を5千円とした予算案が,満場一致で可決されました。総会の内容は次の通りです。

議長団選出後議事にうつり
1)OB有志による今迄の活動報告黒木美芳氏(38W院)
  顧問・諮問委員会合同会議報告小尾敏夫氏(48K院)
2)規約案審議萩次郎氏(39T)
3)予算・決算案反町勝夫氏(40T)岡本三穂氏(41R)
4)理事選出岡本良毅氏(39H)
の順に活発な意見交換の後,それぞれ可決・承認されました。

主要な内容は次の通りで
?会の名称は、AIESEC-JAPAN ALUMNI ASSOCIATION(略称オバセック)とする。
?年会費は、5千円とし、58年度は250人以上の参加を目標として集める。
?理事は、大学、地域、年令等を考慮し、41人とし女性も4人の参加をお願いした。
等です。詳しくは、規約、予算、理事名簿等を御覧下さい。
尚、当日は、高宮全国理事会会長、武沢首都圏地区理事会会長,田内一橋大学理事、加藤諮問委員(国際文化会館)の諸先生方から御挨拶を頂きました。いつもながらのあたたかい御支援ありがとうございました。誌上を借り御礼申しあげます。

今総会のホスト役は、増井雄二氏(41K)、斉藤克彦氏(41K)、議長団は、平木俊一氏(40T)、山本陽張氏(43W)、会計は、反町勝夫氏(40T)、岡本三穂氏(41R)、石塚涼子氏(58T)の皆さんでした。

OB・AIESEC会長に金子正人氏再選
理事、監事担当委員決まる
総会後の理事会で、会長に金子氏を再選し、また理事の担当分野も別掲の様に決定しました。


1)創立4大学
東京大学: 萩次郎(39、防衛庁)、菅谷雅明(39、メディアセンター)、平木俊一(40、日本興業銀行)、反町勝夫(40、東京リーガルマインド)、山田博(55、三菱商事)
一橋大学:岡本良毅(39、伊藤忠商事)、安井隆豊(39、,安井家具)、井原宏(42、日商岩井)、伊東聰(53、日本興業銀行)、高橋宏一《57、三菱銀行)
慶応大学:金子正人(38、三井銀行)、増井雄二(41、宝貴宝)、木梨恒寛(44、タイムフォーチュン)、小尾敏夫(48、院コロンビア大)、谷本敦(55、三井物産)
早稲田大:黒木美芳(38院、クロキアントアソシエイツ)、安斎洋一(39、経団連)、千葉重美(39院、セフロコンサルティング)、川島宣征(42、モトローラ)、山本裕二(43、鈴木産業)、山本陽張(43、ゼネラル石油)
2)地域
北海道:山ド克彦(56青山、北海道電力)、萩本利之(45小樽、北海道新聞)
東京:横山豊(46上智、日立リース)、小川光久(56上智、三井物産)
名古屋:荒川八洲雄(43名、東海銀行)、足立文彦(44一橋、南山大学)
関西:城山厳夫(41大阪、関西ペイント)、前原金一(41東京、住友生命)、小嶺敏郎(42慶応、カネボウ薬品)、寺西忠勝(42同志社、医学AV教育センター)、坂田昌鴻(42同志社、大西衣料)、東秀行(44神戸、アズマ)、宮内英二(49関西学院、富士銀行)
広島:脇屋利男(39一橋、東洋工業)
九州:磯山誠二(50慶応、西日本相互銀行)
3)女性
岡本三穂(41立教、主婦)、堀井紀壬子(44東大、エイボン)、松坂妙子(46慶大院、一橋大)、
八木少桜(49甲南、ブレークモア法津事務所)
II.監事
玉置良光(48慶大、アーサーヤング会計事務所)

役員及び活動担当委員(※チーフ * サブ)
会長:金子正人
副会長:黒木美芳、岡本良毅、萩次郎
事務局長:反町勝夫、同代理小尾敏夫、岡本三穂
AIESEC支援委員:※小尾敏夫、*谷本敦、山田博、村中幸嗣、松坂妙子
法人化:※岡本良毅、*安斎洋一、千葉重美、萩次郎、川島宣征、反町勝夫、木梨恒寛
組織強化委員(名簿作成担当):※井原宏、*木梨恒寛、山本陽張、八木少櫻、寺西忠勝、荒川八洲雄、高橋宏一、山田博、小川光久、安井隆豊、脇屋利男、前原金一、小嶺敏郎、磯山誠二
会報担当委員:※黒木美芳、*千葉重美、反町勝夫、岡本三穂
セミナー担当委員:※平木俊一、*伊藤伸一、山本陽張、寺西忠勝、谷本敦
親睦会担当委員:※増井雄二、*菅谷雅明、*山本裕二、山本陽張、井原宏、木梨恒寛、岡本三穂、八木少桜、堀井紀壬子
総会担当委員:※川島宣征、*山田博、増井雄二、堀井紀壬子、伊東聡
会計担当委員:※安斎洋一、*岡本三穂、松坂妙子、増井雄二、堀井紀壬子、反町勝夫、八木少桜、
四大学連絡担当:東大(平木)、早大(山本(陽))、慶大(増井)、一橋(井原)

理事会報告
本年の総会開催以降、次のような日程で理事会が開催されました。ここにご報告いたします。
*4月22日第1回理事会:役員・活動担当委員及びその正副委員長、4大学連絡担当者が互選されました。
*6月14日第2回理事会:理事者各位への電話による連絡網の作成を決定、LC単位での組織の強化の決定。
*10月5日、岡本副会長逝去に伴い、公認副会長として安井隆豊氏、理事として尾崎紀夫氏、また村中理事の海外転勤により公認理事として伊東聡氏がそれぞれ就任しました。組織強化・会費納入維持のため、オバセック事務局・連絡用電話設置及び事務局連絡員配置を決定。

10月5日の理事会決定に従い、事務局連絡場所及び電話の件については、昭和40年東大卒業の  反町勝夫事務局長の好意により、反町氏の経営する会社内に設置することができました。事務局連絡員は、岡本三穂氏の友人平野潤子氏にお願いいたしました。オバセック全会員の自由活発な情報交換の拠点となることを期待します。積極的にご利用下さい。
アイセック・アルムナイ・ジャパン事務局連絡所
〒101 東京都千代田区三崎町2-9-8
LEC・東京リーガルマインド内(水道橋東口1分)TEL03(263)1008

会費納入に御協力を―すべての会員の皆様へ
我国にアイセックが誕生して20年。アイセック卒業生も1600名余になりました。海外会員は約15万人といわれ、年々5千人ずつ増加しております。国の内外にネットを有するアイセックの情報網を一層充実拡大し、会員相互の親睦を深めるため、4月22日の総会で年会費5千円、予算128万円と決定いたしました。本年度予算を全会員のために執行できるよう、ぜひぜひ、会費納入にご協力下さい。
(会費振込口座番号)三井銀行本店普通口座番号5341454
OB-AIESEC JAPAN 代表 金子正人
(振込期限:昭和58年12月末日)

AIESEC-Japan Alumni Association規約 (58.4.22 総会決定)

第一章 総則
第1条(略称)
本会は、オバセック・ジャパンと略称することができる。

第2条(目的)
本会は、AIESEC-JAPANの活動に参加した者が、大学卒業後もその活動理念を追求し、会員相互の親睦と人格の涵養を図り、合わせて国際親善、国際理解を深める事を目的とする。

第3条(事務所)
本会の事務所は、東京都千代田区平河町2-7-2 栄ビル内に置く。

第二章 会員
第4条(資格)
大学在学中に海外研修を含むAIESEC-JAPANの活動に参加した者は、本会の正会員となる資格者を有する。

第5条(特別会員)
AIESEC-JAPAN加盟大学の理事、又は、それに準ずるAIESEC活動関係者を特別会員に迎える事ができる。任期は別段定めない。

第6条(資格の取消し)
本会の名誉を著しく損なう言動のあった者は、総会の決議により会員の資格を取り消す事がある。

第三章 組織
第7条(総会)
会員の総意を反映させる機関として、総会を置く。

第8条(決議)
総会の議事は出席会員の過半数により決する。

第9条(開催)
総会は通常年一回開催するが、理事会の決定により、臨時に開催する事ができる。

第10条(支部)
総会の承認に基づき、地区、LC、海外に支部を設置出来る。但し、本会との緊密な連携に努めるものとする。

第11条(役員)
本会には、次の役員を置く。
1. 会長 1名
2. 副会長3名以内
3. 理事 若干名
4. 監事 2名以内
5. 事務局長 1名

第12条(理事及び監事の選出)
理事及び監事は総会において選出する。

第13条(任期)
理事及び監事の任期は2年とする。再任は妨げない。

第14条(会長及び副会長)
理事の互選によリ会長及び副会長を選出する。

第15条(会長の職務)
会長は本会を代表し、次の事項を行う。
1. 本会の運営を統括する。
2. 総会を召集し、本会の運営を報告する。
3. 理事会を主宰する。

第16条(会長代理)
会長は、国内不在の時、または、事故ある時のため、あらかじめその代行者を副会長の中から指名する事ができる。

第17条(理事及び理事会)
1. 名簿、会報の作成
2. 研究会、親睦会の開催
3. AIESECへの助言、協力
理事をもって、理事会を校正する。
尚、理事は、理事会又は会長の承認を得て代行者を指名する事ができる。

第18条(監事)
監事は、本会の会計を監査する。

第19条(事務局長)
事務局長は理事会が任命する。事務局長は、AIESECとの緊密な連絡をとりつつ、且つ、事務効率化を充分配慮し、会の運営、会計等の事務を担当する事務局を構成する。

第四章 会計
第20条(会計年度)
4月1日より翌年3月31日までとする。

第21条(会費)
正会員の年会費は総会において定める。

第五章 附則
第22条(会則改正)
本会則の改正及び補足の制定は、すべて総会の承認を得なければならない。

第23条
本会則は、昭和58年4月22日より発効する。

X X X X X X X X X X X X

岡本良毅氏(一橋39年)逝去
岡本良毅副会長は58年7月4日、心筋梗塞のため急逝されました。氏は昭和39年一橋大学を卒業、同年伊藤忠商事に入社され、持前の行動力とバイタリティー、その上達者な語学力をもって国内のみならず、ニューギニア、スリランカ、ナイジェリア等で活躍されてきました。いうまでもなく、オバセックにおいては創立当初からの重鎮であり、今後の活動にとって不可欠の方でありました。その御逝去は測り知れない損失であります。心より御冥福をお祈り申し上げます。

故岡本良毅さんを悼む 
アイゼック日本委員会第2代委員長・岡本良毅さんの訃報に接したのは7月4日(月)の夜であった。めずらしく早目に(?)10時頃帰宅すると、家内が「大変ですよ、東京の川島さん、木梨さん、名古屋の安井さんからお電話があって……」。と言う。全く驚いた。
4月3日(日)、私が上京した際、丸の内ホテルでオバゼックの今後の運営について相談するために、黒木さん、萩君、寺西君、中村(小尾)君を交えて食事しながら、例の調子でじっくりと話し込んだのが最後になってしまった。あの時は元気であったのに…。
人問は自らの運命を予知していることがあると言う。君もひょっとするとそうであったのかも知れない。今思うと君は創立20周年を迎えた去年からアイゼックの法人化について、非常に執念を燃していた。神鬼迫るものがあった。焦っていたと言っても良い。自分ではその時「躁の時期に入って参りまして一」。とか言っていた。さぞかし自らの手でやり遂げたかったのであろう。無念の思いで彼岸にいるのであろう。
思いは20年以上も前に- 山本先生、板垣先生、吉野先生、故人となられた木村先生、中島先生にご指導を戴きながら、アイゼックの創立に走りまわった頃のことを。君はアイゼックを心から愛し情熱を傾注した。余りにもひたむきなので、端の人にそれが理解されないことがある程であった。
君なくしてアイゼックの成立は語れない。強い信念の人であった。実行力のある人であった。国際人であった。そうだ、まじめ過ぎて融通のきかない面もあった。私が53年春にロスアンゼルスに転勤し、昨年帰国して大阪勤務となり、とかくアイゼックのお役に立てないでいる間も、常に強いリーダーでいてくれた。本当にありがとう。
険をとじると今でも君の心からの笑み、人柄のにじみ出たあの体躯が浮ぶ。君を失った今、アイゼック・オバゼックは力強いリーダーを欠いて歩みは遅くなるかも知れない。しかし、君と国際理解への情熱を濠らせた者、君の指導と薫陶を受けた者は、必ずや君の遺志を継いで前進し続ける。どうか安らかに眠って下さい。心からご冥福をお祈り致します。 金子正人(k38)

岡本さんをしのぶ
大変借越ではありますが、一橋大学・吉野先生を初めとする,吉野会ゼミテンの噌人どして、叉、金子正人さんを初めとする、アイセッカーの皆さんを代表して、故岡本良毅さんに弔辞を捧げたいと思います。
良毅さん、まず最初に私はあなたに苦情を申し上げたい。あなたは、三穂さんや、丈人君を残して、どうしてこんなに早く、逝ってしまわれたのですか。
あなたの、すばらしい情熱とエネルギッシュな行動力、又、物事をキチッと最後迄しなければ気のすまない性質は私も昔から良く知っております。`
でも,三穂さんに対する深い愛情、丈人君に対する、温かい親としての思いやり、これらのものを充分に持ち続けて来たあなたが、こんなに早く逝ってしまうなんて、極めて無責任だと思いませんか。私は、良毅さんに心より憤りを感じ、改めて苦情を申し上げます。
良毅さんと私とのふれあいは、一橋大学の吉野ゼミであり、又、創設期のアイセックでありました。アイセックは良毅さんにとって、いや、三穂さんと丈人君を含めた岡本家にとって、ライフワークであったと思います。昨夜の通夜の席でも話が出たのですが、アイセックは岡本さんの尽力なしでは、創立後20数年経た今日あり得なかったと思います。
良毅さんの分折的、帰納的、思考方法とエネルギッシュな行動力、りゅうちょうな英語、語学力なしではとても成立し得なかったと思います。
何と思ったのか、昨年来、20数年ぶりに、彼が物すごい勢いで、アイセックの中興を計ろうとしていた事も、又,『時間がない』とか『半年間で作り上げる』とか度々発言していたことも、今思うに良毅さんが、今日の年を予見し自分のライフワークの完結を試みをしていたとも考えられます。
私は良毅さんは、根は純粋、いや純粋すぎてある意味では、『無邪気な人』であったと思います。
あの六本木のハープのあるバーで、テノールの声はり上げて、オーソレミヨを歌う時の、あなたは今でも目に浮かびます。
又、唇をつき出して、目をむき出して頑固に文句を言ったりしたこともありました。
セルフコントロールの強い人だけに、私には余計にそのハミ出た部分での印象が目について離れません。
最後に良毅さん、私はあなたに、友人を代表して弔辞を読むなんて考えてもいませんでした。良毅さん、できることなら、もう一度起き上がり、黒い大きな、カバンをさげて、セカセカと背中を丸めて、ここへ出て来て下さい。そして、もう一度、アイセックをやり直そうではありませんか。
大変失礼な、借越な事を申し上げましたが、心をこめて、岡本良毅さんへの弔辞とさせて戴きました。
岡本良毅さん、さようなら。合掌
昭和58年7月6日
友人代表 安井隆豊 (H39)
(本文は弔辞としてささげられたものです)

「翔ぶがごとく」逝った人
岡本良毅さんが、あっというまに逝ってしまった。
司馬遼太郎の本に「翔ぶが如く」という大作があったけれども、岡本さんの一生は、正に翔ぶが如きものであった。
幕末から明治初めにかけて活躍した多くの人々が、若くして歴史の舞台に登場し、そして、あっというまに去っていった。去ったときの年令は、20代、30代、せいぜい40代であった。生きながらえて明治の元勲と呼ばれた人々は二流、三流の人物であったとか。
岡本さんの、われわれの歴史への登場は、それほどさっそうとしたものではなかった。今から20余年前、たしか渋谷は道玄坂の街角から、例の厚手のオーバーを着て右手に大きな黒のカバンを下げ、夕暮れの中からモッソリと現われた岡本さん、その時が最初の出会いである。
その時の様子は今でも鮮明な印象として残っている。そして、最后の出会いは、本年6月14日の興銀での会合であった。その時も、岡本さんは、右手に大きな黒いカバンを下げて、モッソリ地下鉄の方へ去っていった。
さようなら岡本良毅さん。 萩次郎(T39)

教えて下さい、岡本大兄
この9月16日でパプアニューギニアは独立8周年を祝う。そのPNGへ岡本大兄が行くことになったのが12年前のことで、一人で行くのは淋しいからお前も来てくれというので3年間をつきあった。
二人で頑張ってPNG大学にジャパノロジー学科を設けようというのも夢の一つであった。その為にも儲けなくてはと、彼は私を水産屋にし、彼自身はありとあらゆるプロジェクトを走らせた。オーストラリア・PNGの政財界の重要人物の多くを巻き込み、腎臓結石まで作り乍ら良くやったと思う。
PNG伊藤忠初代所長の業績は今尚CIマンに引き継がれではいるが、彼のロマン迄は気にかけてもらえまいと心配している。
近々に富士霊園の彼に会いに行こうと思う。良毅さん、貴方は何をしたかったのですか、一所懸命生きていた様だけどし残したことがあったのですか、有つたら教えて下さい。東京では南十字星が見えなくて、貴方のところからならあの星の語りかけを伝えてくれませんか。 合掌。 川島宣征(W42)

岡本さんの仕事での活躍
海外建設部所属の岡本君が最近契約に成功した案件の例を挙げると、,次の如きものがあります。
1.スリランか総合病院建設。鹿島建設と組み、日本政府の無償経済協力案件、70億円受注。
2.スリランカ、マハベリ河灌概工事。間組、戸田建設、伊藤忠3社によるコンソーシアムで、80億円受注。
3.ナイジェリア、ロア・アナンブラ地域灌漑工事。大成建設と組み、,160億円で受注。
彼は新規案件の創出を得意とし、あの大柄な体の全力を仕事にぶつけ、時として寝食を忘れる程でした。現役の学生の頃から入社後約20年を共にした偉大な友人を失い、非常に残念に思っています。 亀田 栄(K-39)

アイセックの皆様へ、感謝の気持ちをこめて
昨年の9月、アイセック20周年記念パーティー出席を契機として、OBの方々の再組織化を、岡本が皆様に呼びかけ始めて、ちょうど1年がたちました。その1年後の今日、その本人が、今はこの世に亡き人となってしまうとは…。まこと人の運命はわからぬものと痛感しております。この度の岡本の突然の死去に際しましては葬儀を経て今日に至るまで、アイセックの関係者の皆様から心からのお励ましをいただき、誠にありがとうございました。
私の心境を児抜き代弁して下さったような安井様のお心のこもった御弔詞、先生方、OBの方々、現役の方々からの御供花、御心遣いを賜わり、又、一橋LC、OB有志の皆様には息子丈人の教育資金カンパまで賜わり御厚情のほど厚く御礼申し上げます。
岡本は、皆様から「人が60才迄にする事を全部やってしまった」と云われる位、47才の生涯を彼の愛称「ブルドーザー」の如くただひたすら突進し、精一杯エネルギーを出しつくしてその一生を生きたように思えます。
それもひとえに生前皆様がお示し下さいました御交誼があればこそと改めて心より感謝申し上げます。この誌上をお借りして、皆々様にお礼申し上げさせて頂きます。
幸いオバセックも、その後、総会を経て、具体的に組織化されて来ておりましたので、,これが絶える事なく続いて行きます事を岡本も切に願っている事と存じます。「アイセックとその仲間達」は、私にとりましても、又、息子丈人にも、それぞれ、夫、父の残しました遺産と思っております。
岡本の語っておりました夢は、オバセックの日本国内の組織強化を図った後、次の段階として、それを国際組織に成長させ、もっとなめらかな世界各国間の交流が出来るようにし、それが世界平和につながると信じていたと私は理解しております。
今後のアイセック、オバセックの発展を願い、私も何か出来る事が御座居ましたら、出来る限り手伝わせていただきたく存じております。私は、現在岡本のおりました会社の関係者の皆様方の御配慮を頂き、就職し、社会人としてどうにか自立を始めました。
今後とも皆様方の御指導、御便燵を賜わりたくお願い申し上げます。  岡本三穗(R41)

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アイセック・ジャパン設立時のもう一人の証言者

今月に入って、「プレジデント誌創刊の足跡」という「プレジデント社」の社内限定本が届きました。その中に、元タイム社アジア総支配人兼プレジデント社副社長北岡靖男氏(1928.12.10?1997.2.10)とのインタビュー記事の中にAIESEC in Japan創設にかかわるお話が掲載されていたのでご紹介します。

Y.Kitaoka_B.jpg
ありし日の北岡靖男氏

北岡:ニューヨークから日本へ帰ってくる直前に、(タイム社国際担当副社長の)エド・ベイカーが僕を自分の部屋に呼びましてね。タイムライフビルの33階から、ウエストサイドを見下ろして、向こうにハドソン川があって、そこに大きなデラックス船がダーツと並んでいてね。大西洋航路花形のころですよ。大きな「ユナイテッド・ステーツ」だとか「イル・デ・フランス」だとか、ダーツと並んでいる。それを見下ろしながら、彼が僕に真剣になってこう言ったんです。
「AIESECという組織があるんだ。ワシはそれの評議員の一人だ。お前さんが日本に帰ったら、ぜひとも日本にそういう組織をつくってほしい」と。

要するに、全世界の経済商学関連の学生の交流機構ですよ。細かい翻訳は忘れましたが、「ついてはすぐにでも日本で外国の学生を引き受けてくれないか。しかもそれを関係各方面に紹介して、AIESECの芽を育ててほしい」と、ベイカーが一生懸命僕に延々と説明したのを覚えていますよ。


そして日本へ帰ってきたら、間もなくドイツからバーン・トーマスという学生が来たのです。これがものすごく優秀なヤツで、これこそ本当に日本のAIESECの歴史に残るべき人物ですよ。僕ももちろん手伝っていろいろなところに紹介したり、アドバイスしたり、いろんなことをしましたけれども、とにかく彼の組織力というかセールスマンシップというか、ものすごかったですね。あれよあれよという間に、日本の主だった各大学の中にAIESECの支部をダーツとつくりましたね。一橋、慶応。早稲田はそれほどでもなかったけれども、同志社ね。そのころの同志社の学生が寺西です(注:同志社LC/1967卒/北岡靖男氏秘書、タイム誌広告営業。後、プレジデント社広告渉外担当)。慶応が今の木梨ですよ、「フォーチュン」にいる。(注:慶応LC/1969卒/北岡靖男氏秘書。後、フォーチュン広告担当、プレジデント社監査役)

そういう意味ではベイカーというのは偉い人で、タイム社の国際部門の副社長が、なぜ僕にAIESECがいかに大切な組織であって、早くその芽を日本に育ててほしいと言ったのか…..。本当に熱意をこめて僕に話したんですね。それが今、大変に広がっているわけでしょ。それにプレジデント社は非常に大きな貢献をしたと思いますよ。

― そこらへんを少し具体的に…..。
北岡:そのバーン・トーマスの次の次の次ぐらいから、どういうわけか日本のタイムライフが引き受けられなくなって、プレジデント社に紹介して、たまたまプレジデント社ではみんな英語ができないんで、英語教育にもなるのではなかろうかということで、それから何人か来たでしょ。
― 四人です。
北岡:一人、シャープなんていうのがいましたな。この間、遊びに来たよ。
― ウチにもときどき来ているんですよ。
北岡:観光業か何かやっている。
― カラムもそうだな。カラムは、今はなかなか有名人なんですよ。
― カラムの弟は「フォーチュン」の編集部だって?この間そう言っていましたよ。カラムは国務省ですね。シンポジウムのパネリストか何かで日本に来たんですから。それから、アラブがいた。モハメッドね。
北岡:うん、いたいた。
― ドクターね。
北岡:このAIESECには、プレジデント社は相当大きな貢献をしていますよ。そのころの連中が、すべての日本の組織のオーガナイジングをやったわけですからね。
― バーン・トーマスというドイツから来た男は、日本にAIESECを組織化しようと…。
北岡:ということを主目的として来たわけです。それを日本のタイムライフで引き受けたわけです。だからタイムライフの仕事は一切しなかった。とにかくただ走り回るだけ。
― その滞在費とかペイはタイムライフが保証をして…..。
北岡:全部保証したわけです。
― この間、僕のところにキングストンというヤツが来たんだけれど、こいつはスタンフォードを昨年出た学生上がりなんだ。これがアメリカのAIESECの….。
AIESECというのは、要するに各国の青年諸君たちがお互いに交流して….。
北岡:経済学部と商学部の学生の研修機構ですね。全世界のそれをサポートする企業が、その学生を半年なら半年、引き受けるわけです。
― 仮に現在のプレジデント社がそれに貢献があったとすれば、非常に初期の時代に、わずか四人だけれども、それを引き受けたという意味ですね。
北岡:草創期にそういう活動家をかくまった。
― アジトを提供したというわけですね(笑)。
北岡:そういうことです。
― 英語を習得するという点前のほうの目的は達成しなかったけれど….。シャープなんか日本語がうまくなったものね。逆に向こうが日本語を覚えて言っちゃった(笑)。

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合格証書

TOEICやTOEFL といった語学力の検定試験でそれなりのスコアを必要としていますが、その昔はアイセックが独自の研修生語学資格試験を行い、認定証を出していました。これは、1970年2月1日にアイセック日本委員会の送出し選衡委員会から早稲田LC/1972 の鮫島氏に授与された合格証書です。
certificate_A.JPG

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AIESEC Symposium in Amsterdam

AIESEC International invites you to participate in the…
AIESEC Symposium on Developing Talent in Emerging Markets

A unique networking and learning event designed for business leaders to interact with the top university talent from emerging markets. Businesses looking to gain competitive advantage through recruiting and retaining talent in emerging markets have an exclusive opportunity to learn directly from each other and AIESECs youth leadership. These AIESEC leaders are the presidents of AIESEC in their countries giving each an intense experience in management and leadership and also an education on many of the world’s major issues from a local and global perspective.
Richard L. Baird, Global Human Capital Co-Leader and a member of the Global Leadership Team of PricewaterhouseCoopers will open the event with a Key Note address on the Importance of Developing Talent across the Business World. The agenda consists of multiple workshops facilitated by experienced business leaders and supported by AIESEC members in these areas:

• Sourcing Talent in different emerging markets
• Developing and Retaining Top Talent
• Building capacity in Emerging Markets

The event will be hosted as an open dialogue on the perspectives, experiences and aspirations of young people entering their careers, and business leaders working and interested in emerging markets.

Insights and questions raised during the workshops will be addressed in the afternoon, followed by a panel of experts debating the needs and wants of youth and business in major growth markets.
The event will conclude with a key note from Mr. Andrew Fiddaman of The Prince of Wales International Business Leaders Forum.

Please join us on the,
20th Of February 2006, 9:00 am, Amsterdam, The Netherlands

For registration information or questions please contact Frances Donegan-Ryan at
FrancesDR@ai.aiesec.org

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Alumni Meet-up in Chenzhen

Ken Su, AIESEC Alumni in Taiwan, and other Taiwanese alumni who are now working in China got together on December 12 in Shenzhen. According to his email, they are planning to make this kind of get-together regularly like once per month in the future. Also, they are expecting to invite more alumni, not only the Taiwanese alumni but from other countries like Japan, to join them. Any alumnus who are interested in joining such event, please feel free to contact Ken or Willy. their contacts are as follows.
Willy Wang - mail
Ken Su - mail

Ken_DSC01345.JPG
(From left) Linda, Phoebe, Hobart, Willy, Seven, Julian. (Picture taken by Ken)

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研修の思い出 IV

"OBAIESECer による研修の思い出 IV
は、関西地区から1965年に初めて研修に行かれた寺西忠勝氏(DOLC/1967)のレポートです。今年、現役によるインタビューによって作成したものです。下記のリンクからご覧下さい。
研修の思い出4

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アーカイブス写真館:1966年日独研修生特別交換レセプション

1966年に行われた日独研修生特別交換で来日した139名は、アーカイブス写真館2004年12月3日の欄に紹介されているように京都セミナーに参加したのですが、帰国直前には八幡製鉄戸畑工場や広島の東洋工業呉工場の見学を兼ねて九州旅行をしています。写真は、阿蘇山での集合写真です。山本裕二氏(WALC)、藤田聡氏(TOLC)、伊藤彰男氏(KOLC)、堀井紀壬子嬢(TOLC)といった受入れ委員会・レセプション担当の若かりし頃のお顔が見られます。

Nichidoku Report_D.jpg

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アーカイブス:アニュアルレポート

今日のAIESECは、世界90カ国、850大学で約50,000人がメンバーとして様々な活動をしており、アルムナイは約30万人いると言われております。日本においては、24のLC(大学の数としては約30)で約1,000人がメンバーとして活躍しており、アルムナイは約6,500名です。
今日までAIESEC活動が面々と続いているのも、日本に設立された昭和37年(1962年)以来、日本委員会や各大学委員会のメンバーは勿論のこと、理事会の先生方、経済団体の役員の方々、研修生を引受けて下さり、賛助会員としてご協力して頂いた企業の方々といった、様々な方々のご理解、ご協力、そして献身的なご努力の賜物であると言えましょう。

このOBAIESECホームページのアーカイブスでは、今日のAIESECの礎を築かれた方々や企業名をご紹介していきたいと思っております。2012年の50周年までに、各年の役員、理事会、顧問会議、諮問委員、研修生引受け企業名、賛助会員企業名、来日研修生、送出し研修生を全てご紹介していきたいと思っております。
これは、私たちOB・OGの為だけではなく、現役のAIESECerにとっても貴重な資料となるのです。現役が渉外活動をする時、かつて研修生を引き受けてくださっていた企業、賛助企業にお願いに上がる時に、知っているのと知らないのとでは大変な違いがあります。
その為には、各年度のアニュアルレポートその他資料が必須ですので是非皆様のご協力をお願い致します。
只今、事務局に集まっているアニュアルレポートは、1962, 1963, 1967, 1968, 1973, 1975, 1981, 1985, 1987, 1988, 1989, 2001, 2003, 2004年のものだけです。これ以外の年のアニュアルレポートやその他の資料をお持ちの方は、是非事務局までご連絡をお願い致します。

それでは、現在事務局にあります資料の中から、昭和37年度より順次ご紹介しますので、ご興味のある方は、下記をクリックしてください。


昭和37年度役員・理事会・顧問会議

役員
委員長: 金子正人(慶應義塾大学経済学部)
副委員長兼総務局長: 岡本良毅(一橋大学商学部)
総務局員: 安井隆豊(一橋大学商学部)
総務局員: 依田隆夫(東京大学経済学部)
財務局長: 山田一郎(一橋大学商学部)
渉外局長: 黒木美芳(早稲田大学大学院修士課程)
渉外担当執行委員: 木戸 誠(慶応大学経済学部)
渉外担当執行委員: 関口三就(一橋大学商学部)
渉外担当執行委員: 藤田晋作(東京大学経済学部)
組織委員長: 鞆安 猛(慶応大学商学部)
組織局員: 宮川良三(東京大学経済学部)
情報宣伝局長: 高橋 衛(一橋大学経済学部)
外務局長: 秦 浩一(慶応大学経済学部)
外務局員: 福田耕也(一橋大学経済学部)
外務局員: 萩 次郎(東京大学経済学部)
常任委員会議長: 大槻聡幸(早稲田大学大学院博士課程)

理事会
会長: 木村重義(東京大学経済学部教授)
常任理事: 山本 登(慶應義塾大学経済学部教授)
常任理事: 板垣與一(一橋大学経済学部教授)
常任理事: 中島正信(早稲田大学商学部教授)
理事: 鈴木保良(慶應義塾大学商学部教授)
理事: 柳川 昇(東京大学経済学部教授)
監事: 小泉 明(一橋大学経済学部教授)
監事: 河辺 旨(早稲田大学政治経済学部教授)

顧問会議
日本経営者団体連盟 専務理事: 前田 一
経済団体連合会 常任理事・事務局長: 堀越禎三
経済同友会 常任幹事・事務局長: 山下静一
日本商工会議所 専務理事・事務局長: 高城 元

研修生引受け企業
タイムライフ(Bernd M. Thomas/ドイツ)、野村證券(リンドグレン/米国)、三菱銀行(ベッカー/フランス)

賛助企業
三菱銀行、三井銀行、日本長期信用銀行、日本相互銀行、野村證券、東京電力、関西電力、日立製作所、第二精工舎、東京海上火災、古河電気工業、リッカ―ミシン

研修生送出し
宮脇淳光(東京大学/イタリア・Banco di Napoli)
藤田晋作(東京大学/米国・Pacific Far East Line Inc.)
久保田博政(一橋大学/米国・Portland Public Docks)
千澤忠彦(慶応大学/ドイツ・Siemens)
亀田 栄(慶応大学/香港・Jardin & Matheson)
金子正人(慶応大学/米国・Rust-Oleum Corp)
大駒 勲(早稲田大学/米国・Portland Public Docks)

     x x x x x

昭和38年度役員
委員長: 岡本良毅(一橋大学商学部)
副委員長: 萩 次郎(東京大学経済学部)
副委員長: 秦 浩一(慶応大学経済学部)
総務局長: 脇屋利男(一橋大学)
財務局長: 弓野正彦(慶応大学)
渉外局長: 片山直輝(東京大学)
外務局長: 安斉洋一(早稲田大学)
情報・宣伝局長: 菅谷雅明(東京大学)
組織局長: 西口  (早稲田大学)
書記局長: 神山鎮郎(慶応大学)
常任委員会議長: 黒木美芳(早稲田大学大学院修士課程)
常任委員会副議長: 千澤忠彦(慶応大学)
常任委員会副議長: 安井隆豊(一橋大学商学部)

大学委員会常任委員
一橋大学:岡本、安井、脇屋、福田、西村
慶応大学:秦、千澤、弓野、神山、亀田
東京大学:藤田、萩、片山、菅谷、平木
早稲田大学:黒木、安齋、西口、山田、岡松

理事会
会長: 木村重義(東京大学経済学部教授)
常任理事: 山本 登(慶應義塾大学経済学部教授)
常任理事: 板垣與一(一橋大学経済学部教授)
常任理事: 中島正信(早稲田大学商学部教授)
理事: 鈴木保良(慶應義塾大学商学部教授)
理事: 柳川 昇(東京大学経済学部教授)
監事: 小泉 明(一橋大学経済学部教授)
監事: 河辺 旨(早稲田大学政治経済学部教授)

顧問会議
日本経営者団体連盟 専務理事: 前田 一
経済団体連合会 常任理事・事務局長: 堀越禎三
経済同友会 常任幹事・事務局長: 山下静一
日本商工会議所 専務理事・事務局長: 高城 元


研修生引受け企業
三菱銀行(Rolf jaeger/ドイツ)、三井銀行(Norbert Valentin/ドイツ)、東京銀行(Purie Aroon Kumar/インド)、住友銀行、日本相互銀行(Richard Roth/米国)、野村證券(Robert Rosbe)、日興証券(Karl Steeb/ドイツ)、山一證券(Stephen A. Strawn)、大和証券(Jeanne A. Agen/米国)、ソニー(Barthe Christian/フランス)、日本ビクター(Michel Chevassus/フランス)、日立製作所(Barrett N. Sinowitz/米国)、シェル石油(Hurbert Looser/スイス)、三井物産、不二貿易(尹汝民/韓国、李姫京/韓国)、タイムライフ

賛助企業
三菱銀行、三井銀行、日本長期信用銀行、日本相互銀行、富士銀行、東京銀行、住友銀行、神戸銀行、三和銀行、野村證券、東京電力、関西電力、日立製作所、第二精工舎、東京芝浦電気、日本ビクター、西武百貨店、東京海上火災、大正海上火災、味の素、日本興業銀行、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、東洋レーヨン、古河電気工業、リッカーミシン、日本生命保険

研修生送出し
藤田晋作(東京大学/米国・Pacific Far East Line)
片山直輝(東京大学/米国・University of California)
鈴木摂夫(一橋大学/スコットランド・IBM)
加藤信一郎(一橋大学/米国・Patterson Frozen Foods)
福田耕也(一橋大学/カナダ・British Columbia Forest Products)
脇屋利男(一橋大学/台湾・Taiwan Cement)
弓野正彦(慶応大学/ドイツ・Robert Bosch Elektonik)
秦 浩一(慶応大学/米国・Ad Auriema)
坂井一征(慶応大学/米国・First National Bank of Oregon)
三森 功(慶応大学/韓国・Chail Wool Textile)
道田鋼毅(慶応大学/韓国・Chunusa Trading)
黒木美芳(早稲田大院/フランス・Shell Oil)
田崎 徹(早稲田大院/米国・Hotel Benson on Broadway)
加賀武太郎(早稲田大院/ドイツ・Hssener Verkeliro-Aktiegesellshaft)

x x x x x

昭和39年度役員
委員長: 安井隆豊(一橋大学商学部
副委員長: 萩 次郎(東京大学経済学部)
副委員長: 斉藤嘉津彦(早稲田大学)
総務局長: 廣津常則(一橋大学)
財務局長: 藤田紀一郎(慶応大学)
渉外局長: 反町勝夫(東京大学)
情報・宣伝局長: 江川 清(慶応大学)
常任委員会議長: 安斉洋一(早稲田大学)
常任委員会副議長: 大谷裕康(慶応大学)
常任委員会書記: 柴田英明(東京大学)

AIESEC-JAPAN NEWS No.3
編集責任者: 江川 清(慶応大学)
編集委員: 三枝邦夫(一橋大学)
編集委員: 福本匡克(慶応大学)
編集委員: 伊藤伸一(東京大学)
編集委員: 涌井敏雄(早稲田大学)

大学委員会委員長
一橋大学:服部英夫
慶応大学:石川 隆
東京大学:福岡 勇
早稲田大学:西尾博紀

理事会
会長: 木村重義(東京大学経済学部教授)
常任理事: 山本 登(慶應義塾大学経済学部教授)
常任理事: 板垣與一(一橋大学経済学部教授)
常任理事: 中島正信(早稲田大学商学部教授)
理事: 鈴木保良(慶應義塾大学商学部教授)
理事: 柳川 昇(東京大学経済学部教授)
監事: 小泉 明(一橋大学経済学部教授)
監事: 河辺 旨(早稲田大学政治経済学部教授)

顧問会議
日本経営者団体連盟 専務理事: 前田 一
経済団体連合会 常任理事・事務局長: 堀越禎三
経済同友会 常任幹事・事務局長: 山下静一
日本商工会議所 専務理事・事務局長: 高城 元

研修生引受け企業
三菱銀行、三井銀行、東京銀行、日本相互銀行、日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、第一銀行、埼玉銀行、横浜銀行、安田生命保険、野村證券、山一證券、日本鋼管、日本石油、東洋綿花、日本航空、早稲田生産研究所

賛助企業
三菱銀行、三井銀行、日本長期信用銀行、日本相互銀行、富士銀行、住友銀行、神戸銀行、三和銀行、日本勧業銀行、北海道拓殖銀行、第一銀行、野村證券、東京電力、関西電力、日立製作所、第二精工舎、東京芝浦電気、日本ビクター、西武百貨店、三菱電機、松下電器産業、エッソスタンダード、東京海上火災、大正海上火災、味の素、中部電力、旭硝子、小原光学硝子、田辺製薬、日本IBM、日本海外旅行、聨合紙器、藤田組、日本興業銀行、東海銀行、協和銀行、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、東洋レーヨン、東洋信託銀行、日本生命保険、三越、いすゞ自動車、日本石油、生命保険協会、槌屋、鐘紡、レナウン、カバヤリーフ、カバヤ食品、日本陶器、明治生命、東洋綿花

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研修の思い出 - III

OBAIESECer による研修の思い出のご紹介 No. 3
です。今回は、萩次郎氏(TOLC/1964)のレポートです。下記のリンクからご覧下さい。

研修の思い出(3)

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日独研修生特別交換40周年

1966年6月30日、山本登(慶応大学教授)団長以下139名の研修生(AIESEC 98名+IAESTE 名+JIMSA 5名)がルフトハンザのチャーター機で羽田を飛び立ちドイツのケルン空港に向け飛び立ちました。一行は、AIESECドイツ委員会によるオリエンテーションを受けた後、各々の研修企業先で2ヶ月の研修を受け、9月11日にケルン空港での日本大使館主催のレセプションを最後に又チャーター機でドイツを後にしたのでした。来年のドイツは、6月9日から約1ヶ月間はサッカーワールドカップで大いに盛り上がることでしょうが、AIESEC も日独研修生交換から40周年記念の年となりますす。特に40年前に参加された方々、何か記念行事を考えてみられては如何でしょうか?

レマン湖での記念写真

Nichidoku_Leman_B.jpg
Nichidoku Report.jpg
Nichidoku_1.gif

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研修の思い出 - II

OBAIESECerによる研修の思い出のご紹介 No. 2
です。(これは、今年、現役がインタビューして作成したものです)今回は、黒木美芳氏(WALC/1964)のレポートです。下記のリンクからご覧下さい。
リンク先

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アーカイブス写真館第9弾の2

6月20日に掲載しました「70年コングレス委員会の合宿」の続きで、脱輪事件ドキュメントです。(各々の写真にお名前とLC名を入れようと思ったのですが、超一流企業の社長や役員の方が何人もいらっしゃいますので今回は差し控えさせて頂きました)
1) オイ、オイ...運転してたのは誰ダイ?
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2)トリャー、ふんばれえ!もう少しだ!!
3) ワ?、汚ネー。誰の足だい?
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4) オー、俺たちだヨ!ところで、何もしないで写真なんか撮ってたのは誰だい?
5) オイオイ、ところで昼飯はどーなってんの?
SAVE0035-2.gif
6) 一体、ドーなってンダヨナー?!
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7) エッt!昼めしか?
SAVE0036-2.gif
8) 本当?
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9) お食事に行きますワヨー。
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10) 昼飯だとヨー。ソンジャー出かけようぜー。
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アーカイブス写真館第9弾:70年コングレス委員会の合宿

懐かしい写真が届きました。これは、1970年に東京八王子セミナーハウスで開催された東京コングレス(IC)コミッティーのメンバーが前年の夏に福島県の方での合宿に行く途中、車が脱輪した時の写真のハズです。この時のことを覚えているメンバーの方、エピソードを教えて下さい。(事務局) 

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早速、鈴木福之助氏(WALC/1971)よりこの時のエピソードが次のように届きました。
『懐かしい写真ですね!場所は福島県いわき市平、弊員の祖母の家のそばです。本合宿に参加したメンバーを記憶の限り挙げると(敬称略)・・・東大の玉越、秋山、尾関、一丸、五島の各氏、一橋の渋谷氏、早稲田の中島、山田、斉藤(康章)と小生、慶応の鈴木、池田の両氏、上智の横山、品田、野崎、永井、大竹さん。もう2?3名いたと思うのですが、一応以上。事故は、農道でハンドル操作ミスで発生。運転は上記メンバーの内の一人で、比較的運転暦の長い人間。バックミラーの気になる女性に、注意を払いすぎた結果の事故。田んぼの中に横たわる社内で、「扉をアケロ」と叫んだのは、上智の長老。運転の彼は、あまり事業に参加せず、イベントの力仕事に記憶を残す存在。現在不動産鑑定士。合宿とは言え、2泊3日を、海・山・酒で過ごし通した、タダタダ若いゆえ可能だった楽しい思い出。車のトラブルはこれにとどまらず、帰路、早暁の国道6号線で、一台故障。中古のブルーバードが電気系統の不具合で走行不能に。東京に到着、女性陣をお宅まで送り届けた「動く車」が、都県境まで、救出に出向き救出!』

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アーカイブス写真館第9弾:70年コングレス委員会の合宿

懐かしい写真が届きました。これは、1970年に東京八王子セミナーハウスで開催された東京コングレス(IC)コミッティーのメンバーが前年の夏に福島の方へ合宿に行く途中、車が脱輪した時の写真のハズです。その時のことを覚えているメンバーの方、エピソードを教えて下さい。(事務局)

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1970年代のアメリカ・スタディツアーでお世話になった『美津子 Duerrさんを囲む会』の御案内


去る30年前、1970年代に実施したアメリカ・スタディツアーの際に、San Francisco State University にて、大変お世話になりました「美津子 DUERRさん」を囲んで食事会(Buffet)を開催したく御案内します。より多くの方々にお知らせしたいと思いますので、みなさまの御存知の方に連絡してください。御指示があれば、小生から連絡します。出・欠は、5月29日(日)までにお知らせください。

日時:2005年 6月 4日(土曜日) 午後 5時00分から 
場所:銀座クルーズ・クルーズ (銀座東芝ビル 8階) 地下鉄銀座駅 徒歩1分    
TEL: 5568?7770 
会費: 6000円(当日会場にて)  
幹事:戸名 仁 (Eメール:hitoshi-tona@nakazawa.co.jp )

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アーカイブス資料館第9弾:1973年アメリカ・スタディツアー

1973年夏に企画された第2回アメリカ・スタディツアーの報告書が見つかりました。その中から一部をご紹介します。この時の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら事務局までお願い致します。

アットホームな雰囲気で

7月12日にサンフランシスコ国際空港に到着、入国手続、税関もスムーズに通り抜け、出迎えのDr. Dowd夫妻Mrs. Duerrの暖い歓迎とともに、スクールバスでCalifornia State University San Franciscoに向いました。まず最初に4週間滞在する、全米でも指折の設備を誇るStudent residence hal1の部屋割使用法、大学構内及びサンフランシスコ地理説明を受け、その日の午後、米人教授、学生達の主催する友好パーティに参加しました。

7月16日、同大学学長Dr. S.I. Hayakawa氏を迎えての始業式より、Summer Sessionは開始され、8月9日、同学部長Dr. W. Nivenによる終了証書授与式までの4週間のプログラムでした。Summer Session終了後、10日間各自、自由行動となり、ホームステイ、又全米駆け足旅行に出発する人達もあり、有意義に過ごした様です。次にプログラムについて、概略的に報告しましょう。


● "AMERICAN BUSINESS METHODS AND PHILOSOPHIES”
月曜日から金曜日まで、午前中はDr. Dowdの講義を受講しました。経営学の基礎知識の確認、また合衆国のビジネスの組織構造、地域構造、日米ビジネス倫理の差異、経済構造の相異、また今後の世界経済からの日米経済のゆくえなど、広い視野に立った興味深いものでした。講義の進行にも細かい配慮がなされ、講義前にその日の主題をプリントして配布されました。彼は神戸大学で教鞭をとられた経験があり、日本人学生、日本への理解度も深く、参加者全貝が終始リラックスした雰囲気の中で、受講できました。講義にそってField Tripで、コンピューター生産工場、繊維会社の全自動倉庫、Bank of Americaの世界本社と、西海岸最大の証券取引所の見学など、バランスのとれた、アメリカビジネス界把握の為のプログラムでした。

● “AMERICAN CULTURE AND COLLOQUIAL LANGUAGE”
もう一つは、アメリカの文化を見る為のクラスで、日本の郷土地理に大変造詣が深いDr. R. Houghのもとで行なわれました。Shopping Centerの管理者から実地での、流通経路、販売方式についての話やら、カリフォルニア州のSocial Security Serviceの調査と体系的説明、これは、身体傷害者、老人、孤児などの社会保障であり、又、失業者に対する無料食事提供の団体見学などとても興味深いものであった。それに、人種多様なサンフランシスコにおけるその地域分布、又教育・雇用均等化が法的に裏付けされている現実、又、都市再開地域の見学、どれをとっても素晴しく、又、異質社会を改めて認識した充実したものであった。後半の2週間はDr. E. Duerrの、ゲストを招いてのDiscussionが主体となり、A.トフラーの “Future Shock”の映画会と、その討論、少数人種の問題、又彼の娘、ナンシーさんによる女性の立場、若人のデートの仕方、結婚など、多角的なapproachで講義内容を盛りあげていた。

● ゲストスピーチ
週に2度、各回から講師を御招きし、Mrs. Dowdのアレンジで、午後行なわれました。Dr. W. Nivenによる教育制度のお話やMr. Marshall Sumidaの日系米人のビジネスコミュニテに現在の確固たる基盤づくりまでの辛酸な話やら、又、非常に傑作な有能なHighway patrol manの交通システムの講義など、彼のjokeで爆笑の連続でした。

● Field Trip
週に2度、午後からスクールバスで、サンフランシスコ周辺を見学しました。Golden Gate Bridge, Golden Gate Park, Fisherman’s Wharf, Stanford Univ. 及び、Menllo Park、又、Oakland PortとUniversity Berkleyなどの観光地を訪れました。8月2日は朝からField trip で、ニューヨークと並び西海岸最大の証券取引所を見学した後、現地の日本企業及び親日派の企業団体である北米加州商工会議所の主催による昼食会に招待され、スキヤス料理店で日本料理に箸を運びながら加盟企業の日本人駐在員の方々の経験談などを聞きました。その後、4・5人のグループで、現地に進出しているMitsubishi International Corp.、 Mitsui & Co.又、加州三和銀行、加州東京銀行、など日本企業の活動状況を昼食を共にした駐在員の方々の御好意で説明をうけました。これらの企業はいずれもアイセック活動に暖い御支援を頂いており、今回もその御協力を得た次第です。8月9日はサンフランシスコ南250?のところにある世界での風光明媚なモントレーへの旅行でした。17 miles drivewayには、高所得者の豪勢な別荘か並び、全米オープンで有名で、会員規則の厳しいゴルフ場があり、浜辺とか港とかよくできた温暖な気候の保養地でした。この日、有名なDefence Language Instituteの見学のあと、日本語を習っている生徒達となごやかに話し、個人的に御宅に招待され、ダンスやビールパーティがあり、アメリカ人の同世代の人達のもてなし方を膚で感じたりしました。その他、サラトガにあるPaul MassonのWineryを見学し
た後、とても景色の美しい山腹で、ワインを飲みながら、歌ったり、踊ったりととても楽しい一時をすごしました。以上の様に、Field TripはProf. Dowd夫妻、Mrs. Duerrと共にすごす、個人的旅行では絶対味わえない、このツァーならではの企画でした。

● Social Activities(家庭訪問)
Summer Session期間中の週末は、参加者全員が多くの家庭から招待を受け、ピクニック、ゴルフディナー、ドライブ、コンサートなどで楽しく過ごしました。筆者は、Leon Russellの野外コンサートに行く機会があり、思いがけずアメリカの若者の熱狂に触れ度胆を抜かれた思いでした。教室では味わいにくい、文字通りat homeな雰囲気の中で楽しい時をすごしました。
さて以上の様に、Social activitiesは、生の英語で話し合い、アメリカの生活を垣間見、人間的な触れ合いを通して相互理解を深める絶好の機会でした。日本企業の支店の方々の家庭、米人の家庭、実業家の家庭、日系人の家庭、様々な人々と接した体験は他のプログラムと同様に強く参加者個人個人の胸に残るものがありました。期間中御世話下さった多数の家族の方々、及び、Dr.Dowd夫妻、Dr. Duerr夫妻、Dr. Houghの親味で、好意的な努力には、参加者一同心から感謝しております。

桜井昭生(慶應義塾大学経済学部)

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アーカイブス写真館第8弾:1970年関西レセプション・プログラム

今は活動を停止している甲南大LCのOGである「チェリー」こと八木少櫻さん(74卒)から、1970年8月に 琵琶湖で開かれた関西RCのレセプション・プログラムの時のスナップが届きましたのでご紹介します。
70_Biwako.jpeg

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第1回フィリピン・スタディツアー受入企画

今は現役のLC活動を休止している甲南大LCのOGである八木少櫻さんから懐かしい写真を届けて頂きましたので順次ご紹介させていただきます。
先ずは、1969年5月に来日した AIESEC-Philippines のスタディツアー受入企画です。下記の写真は、その折に神戸・修法が原の池に行った時のスナップです。八木さんの右隣の女性は、参加者のスーザンさん(University of the Philippnes)です。
PI Tour_A.jpeg

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アーカイブス資料第8弾:AIESEC-Japan設立趣意書

アーカイブス資料の古さからすれば相前後しますが、1962年7月の設立時あたりに作られたものと思われる(発効日が書いていないのでハッキリしないが)設立趣意書的な資料が見つかりました。その中から金子正人委員長(当時)の挨拶文と日経連の前田一専務理事や大平正芳外務大臣を始めとする錚錚たる方々からの賛同書をご紹介します。

「国際経済商学学生協会について」  委員長 金子正人

世界経済は、現象的には地域化傾向を伴いつつ、大勢はより高次の自由化を目担して拡大、発展を続けております。貿易の自由化はもはや現実となり、為替、資本、やがては労働移動の自由化にまで向わんとしています。
かかる情勢下にあって、国家の発展を願い、明るい将来を創造する為には、我々若き世代に、国際的感覚、国際的知識、さらに旺盛な国際的行動力が是非とも要求されます。もしこれ等に欠けるならば、一個人として、今後大きな発展は望めないでありましようし、国の将来も世界の発展から大きくとり残されることになります。従つて国際時代に即応した人的資源の開発は、国家が真剣に取り組まねばならないことではありますが、それにもまして、いわば下からの盛り上りとも言うべき国民一人一人の努力が肝要であります。EECの最近のめざましい成果も、国民に広く、EECの必要性が理解されつつあり、ヨーロツパ大での活動が日常のこととなつて、EEC意識が発育してきたことに一面支えられています。新時代に栄えんとするならば、日本においても新時代に対処する為の国民的努力が必要であります。


我々は、現下の各種の困難な世界情勢に耐えて雄々しく飛躍をとげる国際時代の日本建設の青年的盛り上りとして、国際経済商学学生協会(IASEC)を組織致しました。この協会の主な活動は次の通りであります。
イ)国際間の企業への学生交換
ロ)国際学生セミナー
ハ)海外視察旅行
ニ)情報交換
ホ)組織活動(委員会活動、国際集会)
特徴的な点は、従来の学生交換が、主として大学間でおこなわれていたのに対し、我々の計画は企業に入つて実際面の研究を行おうとする点にあります。諸外国の日本とは異なったヒユーマソリレーシヨソを新鮮な感覚で受けとめ、それを持ち帰るならば、日本産業の近代化、能率化及び諸外国理解に必らずや益するでありましよう。又研究の理論と現実の谷間をうめる役割も果すことにもなりましよう。
この活動が、如何に時流を得た適切なものであるかは、既に一九四九年からAIESECの名の下に本部をジュネーブに持ち、ヨーロッパ、アメリカを中心に活躍してきた団体が大発展をとげている事実がよく示してくれています。
AIESECは東欧共産諸国の同様の企業間国際学生交換の試みに対抗して西側に発足したもので、一九六二年には二八ケ国で約三、九〇〇人の学生が交換されました。創立以来では実に、二五、○○○名の多きにのぼつています。我々の活動もこのAIESECのヨーロッパ委員であるトーマス氏から紹介を受けたものであります。
我々は、この種の活動が現在の日本において必要なものであり、将来ますます必要性をましてくること恕確信しております。しかしながらこの活動を発展させる為には、何にもまして企業家の暖い御理解と御援助をいただかねばなりません。企業へのこの活動の利益はこの小冊子後頁に詳述は致しましたもののこの活動によつて直接当面よい思いをするのは学生自身でありましよう。どうかこの活動の意図する国家的大局的長期的見地と、青年の発展意欲を御支持下さいまして、御支援、御指導下さいますようお願い申し上げます。
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賛同書

「国際経済商学学生協会の発展の為に」    日本経営老団体連盟専務理事 前田 一

ヨーロツパ各国で大なる成果を収めているAIESECがこの度日本に紹介され、国際経済商学学生協会(IASEC)として組織されたことを喜び今後の発展に期待する。
国際経済商学学生協会の活動は、日本人学生を外国企業に留学させ、外国人学生を日本企業において研究せしめることがその主なる内容である。この活動は豊かな国際協調と企業家の深い理解なしには為し得ない。
学生を外国企業に派遣し、外国人を企業に招いて企業構成員に直接、接する機会をもうけることは、国際時代を迎える日本産業に広く国際感覚を植えつける点で有益である。当面企業において目にみえた効果は期待できないであろう。しかしながら、日本全体の発展を願う大局的見地から、この活動に精神的、経済的援助を与えられんことを広く企業経営者各位にお願いしたい。こうした大局的見地に立つた努力は、これからの日本の発展の為にかかせない。
最後に青年諸君!若い情熱を建設的方向にかたむけ給え。未知なる潜在力を持つたこの団体に加わつて大いに力を発揮してみよ。美しい協調にこそ明るい明日があるのだ。君達の力が国際的舞台において、輝しく光を発する時に日本の真の充実があるのだ。
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In support of AIESEC

The necessity for developing human resources prepared for and able to bear the burden of the expansion of the world economy and that of the areas of cooperation is felt painfully.
I understand the purposes of AIESEC is to exchange mutually the students of 245 universities and graduate schools of Europe and the United States for studies in the
representative firms of the world, thus to learn economics, commerce and business administration with international perspective and scale from both the theoretical and practical angles.
I am delighted to hear of the formation of the Japanese branch of this organization and heartily hope for its progress. For I strongly feel the significance of as well as the necessity for the students to be equipped with the international sense, knowledge, the ability to act and above all the international courtesy which form the basis for their
future activities.

Masayoshi Ohira
Minister of Foreign Affairs

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文部大臣 荒木 万寿夫
わが国経済の飛躍的発展に伴ない、更には又これが一層の発展を期するために、国際的視野をもつ有能な入材を育成することは今日緊急かつ不可欠のものとなつた。
このたび、アメリカ・ヨーロッパ各国に於てすでに多大の成果を収めているAIESECの組織がアジアにまで拡大され、それに伴なつて設立されたAIESEC-JAPANが発足以来極めて短期間であるにもかかわらずめざましい発展をとげつつあることは、学生諸君に豊かな国際感覚を養う好個の機会を提供するものとして、誠に喜ばしいことである。
私はこういつた意味で、有能な学生諸君がこの協会を通して今日極めて必要とされる国際的視野を獲得し、わが国経済の発展のために、又国際親善を深めるために積極的な役割を果されんことを期待すると共に、当協会の今後の一層の発展に大きな期待を寄せるものである。

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Ichiro Oshikawa
Secretary-General
Asia Productivity Organization

It gives me a great pleasure to note that the 'International Management Trainee Exchange Scheme' on the lines of a similar scheme successfully operating in the Atlantic region under the sponsorship of Association Internationale des Etudiants en Sciences Economiques et Commerciales (AIESEC) is being put into operation by the International Association of Students of Economics and Commerce in Asia which is a counterpart of AIESEC.

Going through the literature on the said scheme I am sure that it will go a long way in helping the Universities and Business in Asia in developing the internationally trained managers for their countries' future requirements in such fields.

I am sure that the organizations and bodies interested in this field would certainly give all possible help and assistance to the International Association of Students of Economics and Commerce in Asia in implementing their said scheme. I wish them all
success.

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「国際経済商学学生協会(AIESEC)がわが国における組織を固めかつ拡げるために」

東京大学経済学部長 木村 重義

AIESECがアジア諸国をも包括しようという状況にあることはまことに喜ばしい。この地域においては、まずわが国における組織が固められ、充分にわが国の経済学・商学の学生を代表するにたりるまでその組織が拡げられることが当面の必要である。これはまず、あくまで学生の自発的努力によらなければならないが、同時に、大学当局の理解と企業経営者の援助とが前提でもある。
この協会がその特徴的な事業の一つとする国際学生交換については、わが国の各企業や団体が他国の学生を受けいれる用意なくしては成りたたない。これは受入者の国際友好・学問尊重の精神に依存するとともに、企業や団体の発展の長期観に沿うものである。学生がわにも、おなじような世界観とヒュマニズムの理想とから、まず同僚と社会とのために精力をささげ、自分もこの活動を通じて生長し、利益を得ていくという心構えで参加されることを期待する。

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「国際経済商学学生協会(IASEC)の活動推進について」

慶應義塾大学経済学部教授 山本 登

すでに1949年以来、ヨーロッパおよびアメリカにおいて活動していたAIESECが、この度わが国にも導入され、比較的短日月の間にその組織化の第一段階を終わったことを心から喜ぶと共に、その将来の発展に大きな期待を寄せている。
今後の日本経済の発展には、世界経済との関連の緊密化が一段と要望されている折柄、有能な学生諸君が、この機に組織を通じて外国企業の一端に触れておくことは本人の将来にとってのみならず、日本企業の近代化にとっても必ずプラスするところがあると確信している。
しかしこうした活動は、一方的では実りの薄いものであり、日本の企業や団体も交換学生を受容れるだけの理解と寛容さを持って欲しいと考える。
要はこの頃云われる産学協同を国際的な場にまで拡大し、相互理解の精神を推進する手段としてのこの組織の活動を望みたい。

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今度、国際経済商学協会が設立せられて、青年を海外に派遣したり、また、海外から青年の来日を世話して、一定期間実務の経験をつませるという仕事をするようになった。
今日のように地球が小さくなった時代には、各国民が相互にりかいしあうことこそ、また外国で貴重な経験をつむことも、世界各国の発展のために重要なことである。
この意味から言って、本協会の趣旨に賛成し、できるだけの協力をおしまないのである。

早稲田大学教授 中島 正信

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国際経済商学学生協会に賛同する
一橋大学助教授 吉野 昌甫

世界的な貿易自由化の風潮、またEECの目覚しい治頭、そして、それをめぐる国際経済の急激な変化を考えると、今日程、わが国にとつて国際的な広い視野からする知識の吸収や国際的協調の必要に迫られている時期はない。その様な組織の欠如は、わが国社会のあらゆる各層にとつて痛感されている。欧州、米国においては、経済や商業を学ぶ学生のための国際的交流の組織であるAIESECが広範にして積極的な活動をしてきた。このAIESECの組織が今回アジア地域に拡大され、東京にそのための中心が置かれるようになつたことは大いに意義あることである。
AIESECが若い経済、商業研究の学生のために海外における企業活動の実体と実務を知る機会を与え、将来の国際協調の基盤を造る非政治的な活動であることを強調したい。わが国の経済界にとつても、また広く経済学や商業学のための大学関係老にとつても、このような活動の機会が、たんにヨーロッパやアメリカに限定されることなく、わが国やアジアの学生に広く与えられることは非常に望ましいことであると確信する。
AIESECのわが国における積極的な活動の端緒が一部の大学の学生によつて熱心に進められている。私はこの活動の意義を信じ、その将来の発展に大きな期待を寄せている。このように有意義な活動は、あくまで学生の自主的な運動によつて推進さるべきものであるが、その発展の途は長く困難であることを思うと、財界および学界の各種の援助と助言がなによりも望まれる。そして事実、その様な援助や助言なしには、折角の希望の芽も枯れてしまうだろう。
AIESECのアジア地域やわが国における活動計画に賛意を持ち、その発展を心から願うものの一入として、是非若い学生諸君のこの有意義な活動に温く積極的な協力が広く与えられることを切望したい。

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アーカイブス写真館 No.5

早大1966年卒の三枝邦夫氏より、1963年9月3日より東京及び箱根で開かれた「第1回AIESEC
DAYS」の時の貴重な写真をお借りしましたのでご紹介します。尚、この時の様子に関しては、アーカイブス資料第2弾(2005年1月12日の項)に追加掲載しましたのでご参照ください。

1st AIESEC DAYS.jpeg
AIESEC DAYS_3.jpeg

左側は三枝氏で右側は川島宣征氏(早大1966)です。
AIESEC DAYS_2.jpeg
研修生を囲んで乾杯!

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アーカイブス資料第7弾

先のアーカイブス資料第5弾でご紹介した岡本氏の「プリンストン・コングレス報告」のフォローアップとして、アイセック・ジャパン25周年誌に寄稿されている、国際文化会館の加藤幹夫氏の「プリンストンでの想い出」をご紹介します。加藤氏は、アイセック・ジャパン設立時に大変お世話になった方のお一人です。

「プリンストンでの想い出」
Mikio Kato.jpeg
加藤幹夫(国際文化会館常務理事)

AIESEC-JAPANの歴史は、1962年のトーマス氏の来日から始まったことになっているが、実はAIES-EC本部から日本への最初の働きかけは、その二年前にも遡ることができる。このいわばAIESEC-JAPAN前史についてはほとんど知られていないと思われるので、25周年の機会に紹介しておきたい。

AIESECが独仏など西欧7ヶ国の学生によって組織されたのは1948年のことであるが、1950年代末までには、1万人を越す研修生交流の実績をもつ組織に成長していた。しかし、アジア地域との交流はまだみられず、国際本部も存在していなかった。国際本部がジュネーブに設立されたのは1960年であり、そのころにAIESEC活動をアジアにも拡大しようという機運が生じ、極東、オーストラリア委員会が設けられた。この委員会の意を受けて、1960年7月、二人の米国人青年のJ・ハインツ君とC・ページ君が来日した。両君は、ファースト・ナショナル・シティー銀行のT.P.ディビス氏と在米日本大使館の島内敏郎参事官から松本重治国際文化会館理事長あての紹介状をもってきた。そして当時礼同会館で仕事をするようになって間もなかった私は、この2人の世話役を命じられたのである。私はまず、両君を早稲田に連れて行き、中島正信先生(当時商学部長)に引き合わせた。中島先生は、両君の話を熱心に聞いてくだされ、数日後に早慶の学生を十人位集めて大隈会館で昼食会を催して下さった。これがAIESECと日本との最初の出会いである。しかし、この出会いが、日本委員会に発展することはなかった。その後トーマス氏がやってきて日本委員会が設立されるにいたった経緯:については、よく知られている通りである。日本委員会は、1963年、プリンストン大学で開かれた国際総会で準会員の資格でAIESEC加盟を認められたが、この総会には私も日本代表団に加えていただいて参加した。金子正人、岡本良毅、安井隆豊、大駒勲らの諸君が、当時ニューヨークのジャパンソサエティーに勤務していた私を訪ねてきて、プリンストン総会への参加を誘ってくれたのである。彼らが用意してきた総会提出用の英文書類にタイプ・ミスなどが目立ち過ぎることを指摘すると、岡本君は何ら躊躇するところなく、総会まであと二日ありますから打ち直しましょうと言って、夜を徹して書類を作り直した。総会における岡本君のスピーチは実に堂々たるものであった。当時のAIESECには閉鎖的な空気がみられ、新規加盟にはいろいろな条件がつけられたが、こうした中、日本委員会が準会員(Probational
Membership)として認められたのは、岡本君の交渉力に負うところが大きかった。総会終了後ニューヨークに戻った日本代表団の諸君を私の小さなアパートに招き、ささやかな祝杯をあげた。岡本君たちは、いま日本ではやっている歌を紹介しましょうと言って、「今日は赤ちゃん」と「上を向いて歩こう」を歌ってくれた。あれから二十数年になる。岡本君の早世が階しまれる。

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アーカイブス資料第6弾

慶応LCが発行していたガリ版刷の文集「ON THE HILL」(丘の上)No.2を見つけました。編集責任者は、当時商学部2年生の田中正紀氏(68卒)であり投稿メンバーを見ると、おそらく1965年に発刊されたものと思われます。その中から、江川清氏(65卒)と坂井一征氏(64卒)の文章をご紹介します。

新入会員とAIESECの新時代…江川 清
新たなる会員を向かえ、新たなるAIESECへと脱皮し、そして新しい目標に向かって活動を展開する。まさにダイナミックなクラブではないか!
新入会員の一人一人の今後の活動に大いに期待を寄せているのである。なぜならAIESECは、今回のローマの国際会議を契機に大躍進するべく方針を打ち立て、我々会員の活躍の場が無限に拡大され、そして、より現実に具体化されてきたからである。


まず塾内においては、はや創立以来三年目を迎え、その交換実績も二人、四人、五人、と逐次増加をみ、来年度は、12, 3名の交換をあげるべく大なる企画を設定し、一人でも多くの塾生にAIESECの意義を認識させねばならない。そして我々の会員の中から真のオフィサーが出現し、日本の各地の大学にこの活動を普及させ、そして、アジアの各大学にまで足をのばし、近い将来には、東京に世界各国の学生が集結し、国際セミナー、研修旅行などを企画し、更には国際会議をも開催しなければならない。各国の学生が、これらのことを真剣に計画している現在、我々のみがひとり温かい保護に甘んじ安穏としていてよいであろうか。

私は、今度の第16回AIESECローマ国際会議に参加して、このことを痛切に感じたのである。この会議は、40ケ国、300あまりの大学生が参加し、まさに学生による国連総会の観を呈したが、この会議の成果も、伸び悩んだAIESECの活動に新たなる脱皮をなしたといえるのである。即ち、過去数年間論議の対象とされていたAIESECの拡張か内部充実かの問題は、去年のプリンストン会議以後、拡張にともなう内部充実をという路線に定着したのであるが、今回の会議では、拡張を一歩前進させ、世界的学生組織としてのAIESECの実際の企画を検討したのである。まさにヨーロッパ、南北米、アフリカ、そして、アジアには、日本、韓国とともに新しく香港と台湾が仲間入りし、オーストラリアも参加するに至ったのである。そして企画も、フォード財団からの莫大なる寄贈金により、次の様な国際的計画が明らかにされたのである。
<アイセック・アフリカ計画>
アフリカの学生を欧米に実務研修させ、一方アフリカ西海岸地域における学生の交換促進、1965年に大々的なセミナーの開催等。
<ラテンアメリカ計画>
指導者養成の為のセミナー開催、ラテンアメリカ対策機関の設置など。

そして、これらの計画に積極的に援助しうる役員の派遣の要請が、当委員会にもきているのである。我々として、一日も早く、アジアにもこの様な計画を作成する必要があると思うのである。それには、新たなるAIESECに新境地を開拓していくべき、新入会員の今後の活躍に期待する所があるのだ。各国のアイセッカーは、我々日本のAIESECの活動に大いに期待を寄せている。

新入会員の諸君!そして明日のAIESECを背負わねばならぬアイセッカーである同士よ!
我々の前にAIESECは新たなる道を開いてくれている。たとえそれがいばらの坂道であるにせよ、あとは我々が平らな道にすればいいのである。我々の後には後続者がいる。彼等のためにも、そして将来の日本の為にも我々は率先して、海外のアイセッカーに負けない様頑張らねばならぬ。幸い、AIESECは、世界のあらゆるところにその意思と能力あるものには、活躍の場を提供するものであり、国際友好にも貢献できるすばらしい会であるのだ。

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AIESECを讃える….坂井一征
新入生の皆さん、御入学並びにAIESEC御入会お目出度う。大学入試という緊張感から解放された現在の皆さんは、ともすれば何か目標を失ってしまった様に感じて居られるのではないかと思います。しかし、そんな喜びのみに浸っていると歳月は遠慮なく過ぎ去り、いつかはつまらない日々がやって来るものです。そこで、とかくマンネリ化しがちな大学生活の意義を十分に自覚する必要があると思います。
大学生活は学生時代で最も自由な、そして自分の個性を大いに伸ばし発揮することができる大事な時期だと思います。自分の目標をしっかりと見極め、四年間の中に大なり小なりまとまりのあるものを創造し残しておくことは、自分自身の為ばかりでなく後日の想い出としても意義あることだと信じます。
私の体験からすれば、大学生活の充実感は、やはり、ゼミナールとAIESECでの活動にあった様です。私がそこで果たした役割は微々たるものではありましたが、ともかく自己の最善を尽くしたことは事実です。幸運にも、四年の夏休みには米国オレゴン州の一銀行に於いて8週間に渡る研修を受ける好機にめぐまれ、実によき体験と自信を得たのです。そして今顧みるとAIESECの会員であったことを誇りに思うと同時に、心からAIESECに感謝している次第です。
将来の日本を、いや世界を背負って立つ私達青年は、日本の古き因襲や島国根性を捨て去り、国際人としての広い視野を身につけていかなければなりません。その意味でも「産学協同」を主旨とするAIESECは、現代感覚に調和したユニークな団体であると確信します。勿論、外国へ行くことだけがAIESECの目的ではなく、この団体の活動を通じて会員すべての視野と見識が広まり、更には国際親善の為、世界平和の為に役立つものであれば,その目的は十分に達成されるのです。以上のような理由から私は、各員が自信と誇りをもってAIESECという大事業に専念して頂くことを期待して止まないのです。
最後に、私達自信の手でより良き世界を築き上げる様一致協力し、努力しようではありませんか。人生に二度と来ることのない青春を有意義に送ることこそ、私達青年に与えられた使命であり特権であると確信しています。

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アーカイブス資料第5弾

今回は、アイセック・ジャパン設立翌年の夏、1963年8月10日発行のAIESEC-JAPAN NEWS No.3 の中から、第3代日本委員会委員長である安井隆豊氏(一橋1964卒)の序文と日本委員会が正式にアイセックに加盟したプリンストン・コングレスに参加された時の第2代日本委員会委員長である故岡本良毅氏(一橋1964卒)による詳しい報告書をアーカイブス資料館に残したいと思います。
岡本氏のレポートは大変に長文ですが、アイセック・ジャパンが正式に誕生するまでの生々しい駆け引きやプロセスが克明に記されていますので、いつの間にか引き込まれて最後まで読んでしまいましたし、AIESECerにはぜひ知っておいてほしい内容です。お時間のある時にお読みください。

AIESEC-JAPAN NEWS No.3 (1963年8月10日発行)

序 :委員長 安井 隆豊
貿易自由化の進展、国際的な関税引下げ傾向、E.E.C.の成長など日本経済をめぐる国際環境はいよいよ重大化しつつある。
この中にあつて、AIESEC-JAPANは昨年七月発足以来、各界からの注目を浴び、暖い御指導、御援助の下に急速なる発展を遂げている。
これも、外国企業との交換研修生を通じて経済学、商学を実践の分野に応用し、国際的な感覚を身につけ、又、国際親善にも役立てようとする当協会の趣旨が国際的潮流にくい込まんとする現代日本の社会情勢にマツチしているからであるとも言える。
今春、米国プリンストン国際会議においては、昨年度の交換実績を基礎とし、十件の交換を成立させ、又、国際AIESEC準加盟国として認められるなど、代表団の活躍は将来の立派な国際的学生組織としての発展を約束して止まない。
一方国内に於ては、現在の四大学、二百数十名の会員から、近年中には、優秀大学を全国的に網羅する組織に成長せんとし、又、その質的側面から言つても、更に充実した活動を行なわんとしている。
この様に世界的な視野を持ち、将来日本の経済界に活躍せんとする我々学生達の熱意と精密なる分析、長期的な視野、正確なる判断力、更には各界からの一層の御指導、御援助が一体化したところにこそ、AIESEC-JAPANの輝かしい未来が期待されると信ずる。

プリンストン・コングレス

前日本委員会委員長 岡本良毅

私達代表団は3月23日、日本を発つた。Congressが始まる迄の1週聞を米国の地方委員会を訪問し、CongressでのTrainee交換の予備折衝をし、Japan Societyの加藤氏と一緒にCongressの下準備をする為に過す予定であつた。私達はポートランド、シヵゴ、ニユーヨーク、ニユーヘヴンにそれぞれ2日づつ
滞在したが、これらの都市はいずれもアメリカで最強のL.C.を持つていることが後で分つた。

【AIESEC Portland】
ポートランドではポートランド州立大、オレゴン大の両校が当地の経済界と協力して立派な接待計画を用意していた。特に昨年Portland Public Docksで研修を受けた久保田君の好評もあつて日本に対する関心は非常に高く3名の来日希望者がいた。 AIESEC-U.S.顧問会議の一員であるMr. DeWeese (ESCO副社長)を中心にして青年商工会議所ロータリー・クラブ、市当局、そして参加企業が研修生を社内での研修と上手に組合せて社交活動・工場見学・家庭訪問に招待していた。学校側も商学部の教授がAdvisorとして直接AIESEC活動を指導し、自分の研究室をAIESECの事務室として使用させ、すべての事務処理の費用は学校側が負担していた。

シカゴ、ニユーヨークといつた大都会にあるL.C.と違つて、AIESECの基本である学生・教授・企業家の協調が非常にうまくいつている例として、日本のAIESECが今後地方へ発展する場合の参考になるであろう。そしてアメリカ西海岸の企業の日本への関心の度合、東海岸と較べて交通費の問題の解決が容易であること等を考えると、スタンフオード大学、加州大等のAIESECと日本との関係は今後ますます緊密になるであろうことは疑いない。
シカゴへは朝8時の飛行機で発つたが、わざわざ Mr. DeWeese が見逸りに来て下さり朝食を共にし歓談した。企業家もこれ迄熱心にAIESECを後押しするのかと恐縮したし感心もした。彼の言によればAIESECは各々の企業家にとつて計算すくであるよりは、アメリカ経済全体に対する企業家個人々々の社会的責任のあらわれであるというような説明をしてくれた。

【AIESEC Chicago】
シカゴでは昨年野村証券で研修を受けたLindgrenの世話になつた。彼はAIESECを日本に初めて紹介したThomasが日本を去つた後2ヶ月間AIESEC-JAPANの顧問といつた形で我々にAIESECの本当の姿を教えてれた上に彼の研修の成果として日米証券市場の比較という立派なリポートを野村に残しておいてくれた。これはAIESEC活動を多くの人々により多く理解してもらう良い資料になつている。
シカゴ大学は全米45のL.C.の中で最強といわれている。大学院の学生が主力となつて毎年40程のTraineeshipを集めている。委員長のSteveにその秘訣を尋ねてみたが、我々の方法と別に変つた点はない。夏休みに外国に於いて研修を受けたい学生を集めて、3、4回のセミナーを行ない、AIESEC計画のセールスマンを養成する。10月から翌年の2月にかけて全員が各自7・8社を訪問する。その報告を受け調整をするのが渉外担当副委員長であり、他に広報担当、財務担当委員がシカゴL.C.の委員会の構成であつた。(Steve自身も20近くのTraineeshipを開拓したが、その為に授業の半分は休まなければならなかつた
と述懐した時は、悩みは日米共通だなと感心した。) なお、シカゴ市にあるもう一つの大学、ノースウエスタン大学とは地域委員長を通じて協定を行ない両校が同じ会社を訪問しないようにしていた。更に研修希望学生の数以上にTraineeshipが集まつた場合、米国の他の比較的新しい弱いL.C.又は女子大学に1つにつき15ドルで売つてL.C.の財源の補助にすること、L.C.の運営費は学校側が負担する他は研修希望学生から5ドルの手数料を取つて当てていること等、全くビジネス・ライクに行われていて興味深かつた。

〔New Yorkでの準備〕
ニユーヨークではCongressの準備を初めからやり直すことになつてしまつた。Congressで各国の代表に配るパンフレツトの英語がまずく、これでは配布することが逆効果になるとJapan Societyの加藤氏に叱られてしまつたからである。加藤氏は昭和33年、早稲田大学を卒業され国際丈化会館に勤務され、現在ニユーヨークのJapan Societyに派遣されているE.S.S.の先輩である。AIESECには3年前から交渉を持たれ、私達の渡米以前からAIESEC-U.S.と接触していて下さつた。Japan Societyを我々代表国の事務所代りに使わせて下さり、Congressにも3日間お付合い願い、その他種々の便宜を計つて下さつた。国際交化交流の專門家が日本の代表団に加わつたことは非常に心強かつた。
Mr. Jacobusを長とするAIESEC-U.S.の事務所に挨拶に行つた際、極東担当のMorganがニユーヘヴンのエール大学で開かれるAIESEC-U.S. National Conference (アメリカ国内総会) に日本代表団を招待してくれたので、大駒、安井両君をそれに派遣して、一人でニユーヨークに残り、Congressの準備は一人でする決心をした。結果的には両君がアメリカのNational Conferenceに出たことはCongressの予行演習といつた意味でも非常に良かつたし、又Congressでの日米協調がより円滑に行くことになつて大成功であつたと思う。

〔AIESEC-U.S.〕
ここでAIESEC-U.S.の組織を簡輩に論明することにしよう。5年前コロンビア大学から始められたAIESECは現在全米5の地域に45の地方委員会を持つている。そしてニユーヨークマンハツタンの中心に事務所を持ち、1年の任期で委員長が常時に事務をとる。彼は專門の秘書を2人使い、他にエール、コロンビア、ハーバード、プリンストンといつたいわゆるIvy Leaguerが7・8人随時で働き彼を助ける。特にヨーロツパ、南アメリカ、アフリカ、そして東南アジアといつた地域別に担当委員を設けてAIESEC-U.S.全体としての活動計画を各々に任せているのが注目された。更に学界・政界・財界から顧問を迎え、その中からの数人とN.C.の役員及び過去の経験者が10人程加わつて理事会を構成し、法人として認められている。継続性の問題、責任の所在を明らかにする為、社会的信用、更にはVisa、税金の問題などで政府と交渉する時の容易さがAIESEC-U.S.を法人組織にした理由である。財源を斡旋料として各研修生受入会社から、100ドル及び50ドル徴収する制度と共にアメリカのこの組織は各国が次第に見習うところとなつて来ている。日本の組織もこれに類似したものである故將来の発展性は非常に大きなものといえよう。ところで前述したNational ConferenceはCongressの前日3日闇をその対策の協議と次年度の役員改選、国内間題の解決の為の討論に過すのであるが、各L.C.代表が一年に一度集まる日本の常任委員会議に当るものである。要するにL.C.中心の地方分権主義をとり、各L.C.の間の関係は販路協定、Traineeshipの売買等非常に割り切れている。日本の特殊事情を考慮に入れて応用するならばアメリカの組織には非常に学ぶ点が多いといえよう。今後アメリカに派遣されるTraineeの研究に期待するところが大きい。

〔Congress 提出書類について〕
さて、Congressの準備は第三部会に提出する日本に関する報告書の作成に始まつた。日本の組織が理事会、顧問会議を持つ非常に信用度の高いものに成長しており、準加盟を与えてもらうに足りるものである点を強調した。更に日本経済に関する豊富な資料をつけることによつて、高度成長を誇る日本経済にとつてAIESEC活動がいかに我が国に於て必要であるかという点と、外国のまじめな学生が直接日本経済の実状を知ることの重要性を強調することに決めた。私の下書をJapan Societyの專門家が立派な英語に仕上げてくれた。そして付属資料を総領事館・日本観光協会・野村証券・Japan Societyからあり余る程頂き、それに日本から持参した参加企業のパンフレツト、学校、経済団体のカタログ、AIESEC-JAPAN一般報告書、Lindgren's Reportを加えた。

〔Green Form〕
次に第一部会のTradeに用いるG.F.をはさむ紙ばさみを作る必要があつた。各国の代表が一つ一つのG.F.に受入企業の紹介・受入計画・入国の際の必要手続を書いた付属資料をつけて、一つ一つをお互いに交換しあう為のものである。初めての経験なので実際の交換の仕方が良く分らす、私達は甘い考え方をしていたのであるが一対一の交換はかなり嚴格に守られており、日本から持参した9枚のG.F.より最初の計画通り14、5枚を得るのは不可能であることが分つた。
領事館に行つて外国人研修生の来日の際のVisaの諸手続を確かめておく必要もあつた。内山総領事・細川領事は親切に取計らつて下さつた。G・F受け入れ証明書、それにTraineeの履歴書、在学証明書を提出することによつて6ヵ月間のSpecial Status Visaが容易におりることが分つた。
コロンビア大学L.C.を訪れて、Congressの代表の一人である委員長のMr. Mackに会つた。5月に来日するLooserのこと、選衡のこと、組織の継続性のこと、渉外のテクニツクと我々の話題は尽きなかつた。選衡に関しては日本と同様、人物・研修目的・語学力そしてAIESEC活動が基準となり、委員長・副委員長が順位をつけ、上位の者からCongressで交換される仕組になつていた。語学についてはコロンビアにいる各国の留学生が試験し、AIESEC活動については渉外担当の副委員長が報告し、人物・研修目的は教授と委員長が各応募者と面接して決めるとのことだつた。このようなL.C.単位の選衡方法こそ私達のとるべきものであろう。

〔AIESECの問題について〕
コロンビアから、もう一人の来日希望者Mr. Mikeに会いに行つた。彼は前のL.C.委員長Mr. Conheimと一緒に住んでいて、ここはAIESECのいわゆるラテンアメリカグループのたまりであつた。そもそもAIESECはスカンジナヴイア諸国から発展したヨーロツパ中心の組織であつたが、学生の開拓精神はすさまじく、又学生の極端な理想主義もあつて、強固な組織を確実な拡張計画の前にいつも大きないわば、非現実的な構想が先走るのだつた。特にその例はAIESECの役員経験者に多く、一度要職につきAIESECの名声と権力を経験して後任に道を譲るとなると、T・S・Mとなつて拡張計画に手を伸ばすことになる。勿論AIESECの理想は全世界的なものであり、又それは各国の学生に受入れられるだけの魅力を十分持つている。という訳でAIESECは各国に飛火した。日本へも第一回の使節団としてアメリカの缶詰王Heinzの息子が1960年に来日している。
ところで問題はラテンアメリカ諸国のAIESECが1961年にはほとんど消滅してしまつたからである。研修生交換は一年限りのものではない。AIESEC活動は学生だけの力でやり遂げられる性質のものではなく社会的信用を必要とし、社会的責任を強いられる。国際的な信頼関係が各国内の結合力となつている。そこで1962年、この無計画な発展風潮に対して一つのわくをはめることとなつた。有名な1962年Berlin Congress の動議である。そしてラテンアメリカCongress諸国の再建が計られた。AIESECの経験豊かな学生が長期間組織活動者として滞在する開発研修生の考え方と、各大陸毎に地域別事務局を置き、それを通して大陸内の交換を調整した上でCongressで大陸間の交換を行うという地域主義の考え方が以後の発展計画の基本となりそうである。今後の会議においてもラテンアメリカ諸国は多くの報告書を提出し地域別事務局の設立の動議を通過せしめた。AIESECもこれを援助するため、フオード財団からの国際的リーダー養成の為の族費援助計画を優先的に与えることを決めている。更に欧米から幾人かの開発研修生の派遣が承認され、各国ばらばらの勝手な行動を許さなくなつている。

以上の動きは今後AIESECをアジアに発展させて行く上で非常に参考になる点であると思う。つまりアジアにおけるこれ迄のAIESECの動きをよく理解して、現実的な計画をもつて事に当るべきであろう。このことは今度の会議における日本の加盟問題に関係していた。AIESECの様な世界的組織になると、目的よりも手段といつた考えが重要である。世界30数力国、それぞれ異つた社会的環境に育つた学生が共通の場で国際的な仕事をする時、お互いの立場を良く理解しあう広い心と深い知識と同時に、種々の伝統的手続を踏み相互に信頼関係を築きあげていく態度が必要となる。1963年アジアのP.M.に於ては、日本からの加盟申請に対してIASEC-Asiaの日本・インド・韓国をProspective Membershipとして一年聞の非公式交渉を行い、AIESEC諸国から派遣された開発研修生の報告を見た上でProbationary Membershipに進める手続をこしらえている。充実主義と拡張主義、この二つがAIESECの中心問題であることが今度のCongressを通じて痛感された。

〔Congress 始まる〕
さて、前置きが非常に長くなつたが、Congressは3月30日夜からエアインデイアをチヤーターして来たヨーロツパの代表団がニューヨ一クに着く時から始まつた。260人の代表が36力国から集つた。Bill Harmanを委員長とする15人のCongress Committee が12日間に渡る第15回AIESEC International Congressに迎えられたのであつた。会議の準備運営費は5万5千ドル、ニューヨークの南西100マイルの所にあるプリンストン大学が会場になり、参加者は大学の寮に泊つた。会議の中日と終り3日間は視察族行としてニユーヨーク、ワシントンに出かけ、その他随時パーティー、シンポジウム、工場見学等の社交、活動が入つていた。

3月30日、加藤氏と私はニユーヨークでヨーロツパの代表と合流し、プリンストン迄同道した。他方大駒・安井両君はニユーヘブンのエ一ル大学からアメリカの代表団と一緒にプリンストンへ直行した。飛行場でイタリアの代表団に会い、今迄の協力を感謝する。Panducci に宮脇君はどうしたと聞かれた時には一寸困つた。イタリア委員会委員長のFrancesco はじめ全員非常に好意的である。プリンストン迄のバスはS.G.のJ.J. Elkinと同席する。ちよつと高飛車だが、非常に自信を持つた態度が好感を呼ぶ。挙生運動家にありがちなハツタリがなく、愼重な考え方をしているが率直にものをいうのも好ましかつた。今迄の日本の組織活動を高く評価していたが、IASEC-Asiaの問題についてはジエノアのP.M.決議を尊重すること、アジアの問題はAIESECが取組むにはそれ相当の準備が必要であるとすることが彼の基本的な態度であつた。日本のAIESECが諸国から十分信頼される程成長していること、日本にとつてアジアの問題は重要ではあるが、現在は將来の拡張計画の為にも日本の国内組織の確立が急務であることを強調しCongressでの協力をお願いした。

プリンストンへ着いて登録を始めると、トルコ・ユーゴー・ベネズェラ・韓国と同室に決まつた。第一夜は早速アメリカン・パーティーが開かれ、各国の代表と話合う。3日間別行動をとつていた大駒・安井両君と再会し、彼等がアメリカの代表と仲良くなつていることを知つて安心する。この分なら彼等は一人立ち出来そうだと思つた。韓国が4人も代表を送つて来たことには大変驚いた。最初の出会いで、北欧諸国には冷たい態度が感じられた外は、各国が日本にかなりの興味を示していたことが分つた。来日希望のSinowitz Rosbeそれに次期のU.S. President John Tuteurとは話しが良くあつた。我々もAIESECの仲間だという感じを抱いて、12時過ぎイタリアの代表と一緒に帰つてくる。

〔第一日〕
31日、開会式。日本の代表として学長・来賓等に挨拶、はるばる遠くからやつて来たことを認めてくれる。本当にここまでやつて来たという感動。第一回全体会議が続いて開かれ、議長団選出・議題採託が行なわれて、いよいよ日本と韓国をObserverとして会議に出席させる動議がイギリス・オランダによつて提出され、拍手によつて可決された。私はこの動議の文面を非常に気にした。日本は各国の信頼に値するだけの組織と行動力を持つていることを述べ、お礼に代える。早速3部会に分れ、第一部会ではG.F.の交換の作業が始まる。安井君と私がこれに参加、加藤さんと大駒君は第二部会の様子をみてもらう。このCongressで第四部会が第三部会に合併したが、3つの各部会は以下のような議題に從つて同時に審議し、その結果を総会で承認するという方法がとられた。從つてCongressには最低3人の代表が必要となる。

第一部:G.F.交換の為の作業、交換の方法の改良、Trainee-Traineeshipの質の向上、レセプション・プログラムの検討、L.C.の組織・税金・ビザ・保倹の問題。
第二部会:I.A.A.C.の報告、I.A.S.の構造・機能・事務所の問題、A.C.の構造・機能の問題、I.A.S.の決算・予算案審議、加盟申講校の資格審査、拡張計画、N.C.の機能、違反行為に対する制裁、Congress・各国代表者会議・S.O.M.についての権限移譲。
第三部会:セミナー、スタディツアー、旅費問題、チャー夕一フライト、AIESEC憲章、G・R・AIESEC一NEWS等の出版物、国際会議報告摘要案内、その池の情報交換、国際機関との折衝。以上を各部会が5日間で審議し、総会は3日間開かれる。そして我々の加盟問題は4月2日に討議されることになつた。

〔第一部会の様子〕
第一部会は300人は入ろうという大きなホールに、これ又大きなテーブルを並べ、各国代表が国名の記された札の後に着いて始められた。交換を希望する国の代表が現われ、机をはさんでG.F.を見せ合い、記入された条件を比較して交渉するのだつた。日本はイタリアと韓国の間に席を占めた。イタリアの第一部会に派遣された代表は6名、各自が交渉すべき国を分担している。米・独・仏等のいわゆるAIESECの大国は同様の方法で、各々の国の事情に通じその国の言葉を話せる人を交渉相手国に分担して担当しており、それだけの準備こそが、書類の交換が各国にある組織をむすびつけることを可能にするといえる。カタリーナにG.F.の見方を教えてもらう。
Top, Standard, Correspondence routine といつたG.F.の段階、会社の出す生活費の額とその研修生の生活費の額との関係、受け入れL.C.の用意するreception 計画、そして前年のTraineeの作成した報告書を参考にすることが良いことが分つた。しかしやはりその受入国についての経済・文化・地理に対して十分な知識が第一部会の取引には不可決である。

日本でのtrainingについては第一部会の始まる前から各国の関心が集つていることを知つていた。ナイジエリアの代表は「我々は日本からこそ多くのことを学びたい。」といつて交歓を希望していたし、ドイツの代表は遠くへ旅行することを競つているかの如くに熱心であつた。イスラエルからもメキシコからも交歓を申込まれていた。しかし創設期の日本はむやみにどの国とも交歓するわけにはいかない。日本の企業の受入れ体制、逡り出し学生の資格、そしてAIESEC-JAPANの他国との関係から、今回は欧米先進国中心の交歓に終らざるを得なかつた。しかし持参した9枚のG.F.の中4枚は受入希望国をアメリカとはつきり指定してあつた。で私達は先すアメリカから交渉を始めた。相手はMorgan,コロンビア大学大学院1年生、非常に人の好い典型的なアメリカ人学生とでもいえそうな性格で好感を持てたが、AIESEC活動には最近加わつているのでどこか頼りないところがないでもなかつた。彼はcongress以前から非常に親切にしてくれてはいたが、G.F.の取引になると全くビジネス・ライクで割り切つた態度であつた。といつても、Congressに参加する前の私達の観測が甘く、G.F.交換に関して一対一の対応原則を認めていなかつたことが彼の態度をビジネス・ライクと感じさせた原因であつたかもしれない。

交渉は先すアメリカ側が来日希望者のPink Form を提示することによつて始まつた。結局10人の候補者から私が確信をもつて受入企業に推薦できるのは3人ということになつてしまつた。ノースウエスタン大のRosbe、ニユ一ヨ一ク大のSinowitzはCongressに来ていたから十分話合う機会があつた。ポートランド州立大のStrawnについては結婚しているということで問題があつた。
シカゴのRoth はLindgrenの後任としてふさわしいが、十分に彼と話し合つてみないと彼の希望が良く分らない恐れがあつた。U.C.L.A.のAzenは日本の企業が外国の女子を使えるかが問題であつた。来日希望の学生の多くが学部の学生である点も我々が考えていたAIESECの理想像とは違つていた。アメリカの学部の学生については、実務経験はかなりあつても日本の企業の調査部で働かせられる程の学力がない。ここに今後日本のAIESECが各国の来日希望学生の資格に応じてそのTraineeshipの質をかえていく問題があろう。同様の問題は日本側にもある。長期計画を立て語学の練習・実務経験の体得に努めておかないと、漫然と外国へ行くことが好い結果をもたらすとはいいきれなくなる。野村・日立はRosbe Sinowitz に決り、日本相互はRothに来てもらうことになつた。Strawnについては一人で来ることを望んで山一に招いたが、Azen はPost-Congressに残すことにした。又メーカーの貿易部門を希望していた学生が多いことは我々の持つていつたG.F.との対応を困難にさせる原因の一つであり、今年の渉外については改善が望まれる。

この交渉を通じて日本向けにMorganはアメリカのG.F.を数枚提示した。サンフランシスコ・ロサンゼルス・ポートランド・シカゴから出されたG.F.には私の期待した有名会社はなかつた。しかしこれを望むには日本の学生側にも問題があることは分つていた。一体、日本の地理的位置からいつて、文化的に孤立し、更に理論尊重の大学教育を受け、言葉もままならぬ学生を外国の企業が3ヵ月研修させることは、具体的にどんな生活を意味するのだろうか? 日本の学生の海外渡航熱は、すさまじい。だが彼等は海外で生活することの準備が何であるかを十分考えたことがあるだろうか? 私はこの意味で今度研修を受ける人が海外で受ける試練は大きいと思う。そして帰国してから後、海外での生活--例え3ヵ月でも--有意義に過すためには日本で先ず何をしておかなければならないかを率直に後輩に伝えて欲しい。(--実務経験なし、專攻:国際経済、語学:話せる程度、研修希望計画:アメリカへ行くことは私のかねてからの念願でありました--)というB.F.を見る時、私のかねてからの主張である〔十分準備された計画で3ヵ月の研修により外国生活を体験する最善の方法たるAIESEC〕という考え方との矛盾を感じ、もう一つ自信をもつて日本の学生を海外の企業に送り出す交渉ができなかつた。AIESECとは海外への旅行団体ではなく、外国の人々の中に入つて生活するのだと私は考えているのだが。

私がアメリカのPink Form をあれこれ選托したのと同檬にMorganも日本のBlue Formを選び、U.C.L.A.計算機センターに片山君、サンフランシスコのPacific Fαr Eαstern Lineに藤田君、First National Bank of Portland に秦君、Patterson Frozen Foodsに加藤君が決つた。日本側の学生の希望する企業をアメリカ側で出す用意はあり、又日本側にそれだけのBargaining-Powerはあつたのだが、前記のようなB.F.と選衡方法のため十分意をつくせなかつたのは残念に思う。日本のG.F.のofferは一流企業(世界の水準から考えても)から出されているものだし、給料の額、受入計画研修内容からいつても、日本へ来るまでの高い族費を除いては、一流のG.F.をCongressに持参したといえる。だから私はアメリカの学生を厳選した。そして又アメリカの一流企業のG.F.を対等に要求したかつた。ところがアメリカの一流企業が最上の研修計画を持っているとは限らないことが分つた。私の要求に応じてMorganが持つてきたI.B.M.のG.F.はMailing roomで働くこととあつた。"How to Succeed in Business without really trying”ではあるまいし、わざわざ日本から高い族費を払つて行く学生を mail clerk に使うのかと一寸怒つてみたがここにもいささか問題がある。

それは、欧米の企業にとつては外国人を雇うことは極めて当り前のことであるということである。EEC内の労働移動アメリカの雑多な民族構成を論ずるまでもなく、彼等は共通点の多い白人なのであり、お互いに程度の差はあつてもそれは決して質の違いではない。だから欧米の企業はAIESECに対しても初めから協力体制ができているといえる。AIESECの研修生を引受けることは夏の問秘書が休暇をとつた穴埋めに、又季節的に増える仕事の量に合せて臨時雇いを取ること位に考えれば良いのかもしれない。だから私のここでいいたいことは、外国の企業がAIESECにTraineeshipを申し出る時そこには外国人だからという考慮がなされないのである。そして更にいうならば、外国人である、ないの問題はTraineeの側にある。我々は外国人であることを主張して特別扱いを望む前に外国人であることのハンデイギヤツプをなくす為の努力が必要である。もう一度いおう。外国へ遊びに行くのではない。3カ月間外国人の生活に溶け込んで見ようというのだ。

〔独〕アメリカとの交渉の最中にドイツの代表が度々やつて来た。ベルリン自由大の代表はValentinの為のTraineeshipを、ハイデルベルグ大の代表はJaegerのTraineeshipを求めた。彼らの組織だつた行動力は、表面には出ないが力強い信頼感を与える。そして彼等の海外で生活する力はその旺盛な海外の発展意欲と共に、来日Traineeとしての十分な資格を持つていると思えた。だから私としては彼等の大学での学習と日本の企業の用意している研修計画とが適合するかどうかを確かめさえすればよかつた。期間の点で問題はあつたが、結局 Valentin は三井銀行にJaegerは三菱銀行に決まつた。そしてその代りに日本からはベルリンとエセンに送り出すことになつた。こういつた時も、日本から持つていつたB.F.が特定化され、順序がつけてあればもつと良い取引ができるのだから、現在の選衡方法は改善すべきである。副委員長のNohrと前交渉で、我々が既に引受けているSteebと交換にもう一つTraineeshipをドイツが日本に与えることになつた。これは今後更に交換を続ける必要がある。
1日現在ニユ・一ヨークの近くでTrainingを受けている Valentin がCongressに来て、私とも30分程会つて話合つた。彼はベルリン自由大の委員長であつた経験を生かして日本のAIESEC強化に尽したいとの希望であつた。外国の側からそのまま日本に当てはまるとは思えないが、日本ではまだAIESEC組織そのものについての理解が全く出来ていないといえよう。外国の経験豊かな組織活動者から学ぶべき点は非常に多いと思うし、Valentin の強調した国際活動の為の周到な準備、ということこそ我々に一番欠けている点であると考える。Valentin, Panducciといつた各国の学生と、何がAIESECにとつて重要なのかを日本の委員達が話し合う必要があるのではないか。

〔イギリス〕イギリスとの交渉は全く事務的に行われた。ノツチンガムに来日希望の学生がいること、彼は来日するだけの資金を持つていること、金融が專攻であることしか分らなかつた。そこで彼を東銀に引受けることにしたが、交換に出されたG.F.唯一の日本向けだと聞いた時、我々はそれをそのまま引受けてしまつた。私のAIESEC一U.K.に対する知識は不十分で、交渉の糸口さえ見つけることができなかつた。渡英する研修生の研究に待ちたい。

〔イタリー〕イタリーとは今迄のいきさつから交換を実現したかつたが、日本から候補者を見つけるのが難しいという問題があつた。そこで問題となつたのは Thomas の後任として来日を予定されていたPanducciの処理ということであり、当人とよく話合つた。彼は昨年イタリーのInternational Seminarを主催し、I.A.S.のS.G.、Elkinとも親しいAIESECの中の実力者として通つている。今年も又セミナー(Economy of Tuscany)を準備しているが、学生というよりはむしろAIESEC專門家といえる一人であるo日本びいきの多いイタリーN.C.の中でも特に極東通で、日本語も少し話せる。とζろでAIESECの中には拡張派と非拡張派の両者があることは前述したが、拡張派にはイギリスのLowenstein,イタリ一のFodella,ドイツのThomαs等がいた。そしてFodellaはLowensteinがS.G.であつた頃極東担当になつているが、Elkinが就任すると公にはこの役員はおかれなくなつた。ところでThomasの滞日中IAESECとAIESECの問題が表面化したが、AIESECとの結合につとめたのがPanducciである。彼は自分の主催したセミナーに日本から学生を招待し、セミナーの後イタリ一、フランスで研修を受けさせ、日本のAIESECの中心となるべき組織人を養成することに協力した。事実彼はイタリー外務省にかけあつて、当時東大の4年生であつた宮脇君の為に600ドル出させている。
その一方Panducciはイタリー外務省を通して日本の外務省に、この見返りの形で彼が来日する為の費用を出すよう折衝しているが、当時の日本のAIESECは未だ確立されておらす、我々の外務省に対する連絡が不十分であつた為にこの交渉は成功していない。そこで再度Panducciの来日がとりあげられた時、この問題も再検討し日本側で善処することを約束した。彼のAIESECの役員としての実績をみる時、ヨ一ロツパのAIESECに学ぶべき点を多く持つ日本のAIESECとしては彼の来日を是非実現させたかつた。そこで9月以降Post Congressとして交換することを約束した。彼は来日する前にアジアのNon-AIESEC Country を訪問し、拡張の為の可能性を調査することになり、Congressの承認まで得ている。

〔フランス〕
フランスは日本へ学生を2人一緒に途りたいと申し出た。しかも彼等はシベリアを通つて来るといつた。ところがフランスが我々に提示したTraineeshipの質は良いものではなかつた。給料も悪かつたし、名前も十分知られていない小企業ばかり見せられるのは残念だつた。結局我々は、フランスへは日本からTraineeを送らず、フランスから一人を引受け、その代り日本からフランスではなくカナダへ送るという三角貿易を試みることにした。長銀のOfferを引受けたため、他の来日希望者一人をPost-Congressへまわすことにして、とりあえずカナダとの交渉を開始した。カナダはBritish Columbia Forest Co.という木材会社から日本人あてのTraineeshipをとつて来ていたが、来日可能な学生が運悪くなかつた。そこで私はカナダが今年日本に一つ貸を作つてくれるよう交渉してみたが、今年はカナダのTraineeshipが全体に減少しているためその余裕は無いとの返事であつた。言葉、交通の問題を考える時、日本との交換が比較的易いのは北米であろう。だからカナダとの交換を是非やつてみたかつた。フランスの代表、カナダの代表と私が集まつてお互いの事情を読明すると、三角貿易は成功した。
こうして残つているのはSONY一つになつた。そして各国がますますこのTraineeshipに注目してきた。特にモルガンの立場としては15人の来日希望者をかかえている以上、これはのどから手が出るほど欲しかつたに違いない。朝、一緒の食卓で、夜のパーティーで、お互いに相手の出方を探りあつた。しかしフランスがShell石油を彼らの最上のTraineeshipの一つとして日本との交換を再度要求した時、これを断わる積極的理由はなくなつていた。

〔その他〕
ブインランド、ベルギー、ノルウエーとの交換はPost Congressにまわして第一部会の交渉は全部終えることにした。こうして4日間私は安井君を相談相手にしながら、第一部会で世界の学生と商談した。
国際間の学生による合理的取り纏めの具体的活動。私はAIESECとは非常にユニークな活動であることを再確認した。こうして第一部会では三千数百の交換がなされたのだ。

〔第二部会〕
第二部会には加藤さんと大駒君に出てもらつた。一日目に既にMembership審査の為の小委員会が出来て、日本の報告書提出を求められた。フランスとアイルランドの代表にA.C.のベルギー人Tean Tacquesが各国の提出した参加申込みの報告書、各学校のカタログ、Traineeshipの説明、その他の付属資料をもとにして一校一校その資格を審査していつた。日本の加盟申請に対しては、これだけの準備をした上で加盟を申込んだ国は今迄一つもない、と高く評価された。特にA.C.のTean Tacquesに働きかけたが、LindgrenのReportは日本のPioneer workとして注目された。しかし残念なことには、ジエノアのP.M.の決議に規定されてある通り、日本の即時加盟は技術的に不可能だ、という考え方が支配的であつた。

拡張と内部充実これが今度のCongressの主要な問題であつたと私には思える。交換、国際セミナー、国際視察族行を通じての経済学、商学を学ぶ学生の親善を計るという理想は各国の学生に強く訴えるものを持つ。そして発足以来15年、AIESECは常に拡張されて来た。希望によつて40力国に行ける組織はすばらしい。そして遂にアジアの国が参加する迄に至つた。アフリカ、南北アメリカ、ヨ一ロツパそしてアジアを結ぶ学生の、学生による、学生の為の組織なのだ。しかし一方ではAIESECが内部の組織を十分固めずに世界の各地へ発展してしまつたという反省がある。
学生の組織である為に起るいろいろな問題。今年のCongressで出ていた問題を以下に系統づけてみよう。

〔Internal Efficiency〕
…学生は卒業する、組織の継続性と発展性…
勉強とAIESEC活動の両立に苦しむOfficerは各国に多い。例えば親日派のFodeljα、Panducci は3、4年留年しているとのことであつた。アメリカ、イギリスにならい L.C.活動の指針を作ろうという考え方が出ていた。今迄日本では全く論じられていなかつたが、A.C.(助言者)となつて現役を離れたが監督指導する制度に我々は注目すべきである。役員の任期の問題もこれと関係してくることは日本だけではない。

……学生は金がない、財政・旅費問題……
財源をどこに求めるかはN.C., L.C., I.A.S.すべてが直面する大きな問題である。N.C.に関してはアメリカのCompany - Fee Systemにならう国が多く、日本も初めからこれにならつたといえよう。政府の援助を受けているのはアフリカ諸国、ポルトガル等で、その他の諸国では事務経費を大学が負担している例が多い。これは日本では可能性があるかどうか検討を要する。I.A.S.の費用はTraineeship交換の数とその国の国民所得の額に応じて各N.C.が分担、更に各種財団からの補助、企業からの寄付より成るが、財源は決して十分とはいえない。各国の分担金の増加はいつも大きな問題となる。結局今年は国民所得年額一人当り400ドル以下の諸外国は交換一件につき5.50スイスフラン、同400ドル以上7.50スイスフラン、800ドル以上8.50スイスフランと決まつた。ちなみにこれは国連方式にならつている。
族費の問題は、学生だから、金が無くても一方では何とかしようとする意気込みはある。1月も貨物船の船底に寝泊りして研修を受けにくる学生、シベリア鉄道で大陸横断して来ようという学生もある。最善の方法と考えられる、国際機関の出すLeadership Travel Grantを活用する方法については、この2、3年は集中的にラテン・アメリカ諸国のAIESEC 強化に使うことに決つた。しかしアジアは欧米のAIESECにとつては遠い国のようである。

……各国の学生の組織の協力が緊密に行かない、AIESEC活動運営上の問題……
国際親善という共通の理念の下に生活しながら40力国のAIESECを結びつける機能は、I.A.S.の存在、年2回の国際会議とTraineeの交換以外には手紙の往復とお互いの信頼感の上に立つ。從つてCongressでは I.A.S.の構成とその役割が論じられ、S.G.は過去1年間の活動報告を行なう。その他AIESECの出版物、ニユース・ハンドブツク・リポートについての技術的な問題が討議され、Trainee Traineeshipの両方の面から質の向上が計られることになつた。こういつた多くのAIESECの内面の問題が各国のN.C.の代表によつて討議され、内部組織の拡充を計つたのがこの第二部会であつた。

〔第三部会〕
一方拡張の間題は第三部会が取扱うことになつた。そして今迄不明確であつた加盟の具体的手続きを制定することがその主要な点であつた。そしてアメリカの次期N.C.委員長のJohn Tuteurの提出した動議に、デンマークのN.C.委員長のSrendが非拡張派を代表して批判を加えた。即ち4月4日の第三部会では次の様な動議が審議された。

◎301号
非AIESEC加盟国が準加盟を要請する以前に於てAIESECに加盟を希望する委員会は、最低2ヵ月間AIESECの代表によつて審査されねばならない。その代表の加盟希望国訪問は、準加盟の申請が審議される1年以前のP.M.は又Congressによつて承認されなければならない。当該代表は303号に規定する報告書を作成する義務を負う。この代表を迎えた委員会は、Prospective AIESEC Committeeと称することができる。(アメリカ提出 ドノツーセカンド)

これに対してフランスは AIESECの代表の決定は、途り出しN.C.の管理下に置き勝手なAIESEC活動者の行動を防ぐ様にする動議の改訂を提出し、イギリス、オランダはAIESECの代表を拡張の為に送る費用がAIESEC加盟希望国によつて負担され、AIESEC自体の財政負担が重くならない様に規制しようとした。前者は否決、後者は可決された。

◎303号
準加盟校の資格について:準加盟を申講する委員会は次の条件を満さなければならない。
1)当該委員会は301号に規定されたProspective Memberであらねばならない。
2)AIESEC憲章第5条に則り、当該委員会について次の事項を含む報告書が提出されなければならない。
α)憲章の第2条にある条件を滞たす学問的水準、学校の講義内容についての報告。
b)AIESEC活動についての報告。
c)AIESECの活動する地方に於て十分AIESEC活動に対する関心があることの証明o
d)継続性の保証。
e)当該国の存在する地域に応じて決定されるN.C. AIESEC代表、I.A.S.のいずれかが作成する報告書。
(提案アメリカ、セコンドイタリー)

◎304号
更に正式加盟の資格については:正式加盟を申請する委員会は次の条件を満さなければならない。
1)当該委員会は少くとも2年間準加盟委員会であらねばならぬ。
2)当該委員会はその少くとも2年間の準加盟期間中にTraineeshipの数を漸増させていなければならぬ。
3)当該委員会は確固たる継続性を示していなければならぬ。
(提案アメリカ、セコンドイタリ一)

そして次の様な審査の手続きが作られている。
加盟申請についてはA.C.1名I.A.S.1名第三部会のメンバー2名の合計4名から成る小委員会が行ない、その結果によつて、Congressに推薦するものとする。準加盟校については、その資格を毎年審査するものとする。これで今迄憲章上明確さを欠いていた加盟の手順が明らかにされたといえよう。しかし問題は將来の加盟方法が決定されたとしても今迄の加盟問題に対する混乱をどう収拾するかであつた。

4月4日午後第四セツシヨンは正式メンバ一16力国、準加盟国4力国、それにアルゼンチン、日本、韓国のオブザーバー3力国が参加して開かれた。
昼食時アメリカ代表 John Tutevr、イタリー代表Panducciと話合い、日本、韓国については301号の例外規定を設けてくれることになつた。各加盟申請校の資格審査の始まる前にイクリーは次の動議を提出した。
「韓国と日本の委員会の優れた活動に対して更に加盟問題の混乱防止の故に次の例外を認めるべきである。日本の一橋大学、慶応大学、東京大学、早稲田大学、韓国の京城国立大学、高麗大学、四川大学は直ちに準加盟校として認められるべきである。」
議場に大きなドヨメキが起り、非拡張派のデンマークの委員長Srendは直ちに5分間休憩の動議を提出した。
各国代表が集り意見の調整を始めた。私と大駒君はフランス、オランダ、スエーデンの代表に私達の決意を打明けた。カナダ、ナイジエリア、ポルトガルの代表が支持を約束してくれた。非拡張派の反対は昨年の交換が非公式のものであり、今年交換を許されれば日本はそれで満足するべきだという点にあつた。私達は読明に十分意をつくさないうちに5分間が過ぎてしまつた。

議長が議事の再開を告げると満場水を打つたように静かになつた。A.C.のJean Jacquesが小委一員会の報告を読みあげる。一橋大学、慶応大学、東京大学、早稲田大学はそれぞれ2又は3のTraineeshipをあげそれに関する完全な報告がなされている。小委員会は日本の活動をExcellent(最優秀)と評価する。次いで韓国については京城国立大学、高麗大学、四川大学はそれぞれ1つのTraineeshipを獲得しそれについての完全な報告がなされた。小委員会の意見は加盟について好意的である。
議長のビル・ラツプが即時採決に踏切つた。各国の名札が上つた。賛威10、反対4、棄権2。韓国と日本の7校は準加盟が認められたとの議長の宣言に続いて万雷の拍手が起つた。韓国の李代表が立つて感謝の言葉を述べようとするが興奮していて言葉が出て来ない。次いで大駒君が立つて我々はこれからも一層信頼できるAIESEC活動を日本に推し進めることを誓う、と述べて座り私達は固い握手をかわした。
次いでアフリカ、南米の番である。チユニジア、ペルー、チリーが正式加盟をねらい、アルゼンチンが準加盟を要講した。これらはいすれも301号と抵触する問題があつたが拡張派は多数でこれらの国の加盟動議を通過させた。

しかし日本についての昨年のジエノアP.M.での決議では、1963年非公式な交換、64,65年にProbationary Membership。66年Full Membershipといつた加盟に関するレールが敷かれていたのである。更に憲章303、304号に違反しているとのA.C.D. Shulte の注意があつた。日本に対して例外を認めるならば、AIESECのラテンアメリカの諸国に対して不公不になり、又 Princeton Congressの意図した、拡張計画に対する、嚴重な手続の設定という目標と根本的に相入れないものであるという批判が一部にあつた。多くの人々からは日本の加盟についてお祝いの言葉を聞いた。しかし上の様な批判が一応道理にかなつているだけに日本の加盟についての不安は私の心を離れなかつた。私は各国代表と努めて話合うようにした。

丁度その様な時Congress Committeeの委員長が私にテレビ出演を要求した。AIESECのかかえている問題について教育テレビが30分の番組を組んだというのである。出演を依頼されたのはペルー、ナイジエリア、イギリス、オランダの各一名それにBill Harmanと私であつた。私は日本の学生がAIESECを通じて国際的覗野を広めることが如何に重要であるかが今度のCongress参加を通じて痛感されたかを印象として述べ、それにも拘わらす各国のAIESECが日本と同じ問題に直面していることは、世界中の学生が如何に共通の問題を持ち共通の立場を求めているかの証拠であり、それ故AIESECが全世界的な使命を帯びていることを強調した。

ThomasのライバルであつたJohn Bootとこれを機会に日本の加盟問題についてかなりつつ込んだ話合いをしてみたが、彼はAIESECの内部の問題を強調し、本質的にヨーロツパ中心の考えを持つ一般の学生にとつて日本との交換はAIESECに余り大きな意味を持たないといつた態度であつた。
この頃から私はProspective Membershipの日本との関係において持つ意味がやつと分つてきたような気がした。日本の場合Congressには3人の代表を送つた。代表は自分達で自分の国のAIESEC活動について十分各国の代表に説明できるし、代表が参加したこと自体が日本におけるAIESEC活動の所産である。そして我々はCongressの期間中に眞面目に日本の経済について学ぶことを希望する学生が何人も各国にいることを知つた。そして又その為の交換も幾つか成立した。このことは日本の学生にとつてAIESECが如何に意義深いものであるかということ以上に、AIESEC 自体にとつて日本の参加が必要とされているのだ。Prospective Membershipの資格を云々する日本の参加がAIESECにとつて意味があるかどうかの段階は既に過ぎている。日本はAIESECの中に既に入つていて日本側からはその組織の信頼性についての十分な立証がなされている。だから日本が AIESEC に入れるかどうかの問題ではなく、日本のAIESECがどれだけのことをAIESECの内部でするかどうかの問題である。だからこそProspectiveの問題ではなく、Probationaryの問題なのだ。AIESEC-JAPAN が Outsiderとしてとどまることは日本だけでなくAIESEC自体にとつて出来ないことである。
私は総会の議長I.S.M. Simmonsに相談してみた。そして彼は、規則は規則としてもAIESECが日本の加盟を認めないのはAIESECの理念に反するという考え方を出してくれた。カナダ、フランス・ドイツの代表とも話合つた。

〔全体会議〕
4月6日、日本と韓国の加盟問題が総会で討議された。デンマークのSrendがすかさず憲章との関連をA.C.に尋ねた。そしてSchulteがこの問題について彼の見解を明らかにした。第三部会の決議は間違いであり、日本韓国の立派な組織活動に対してCongressは感謝の意を述べるにしても、資格についてはProspective Memberにとどめておくべきである、ということだつた。これに対してSimmonsが議長団の見解を述べ、対立した。Srendは更にこれを不満として議長不信任案を出し激しくこの見解を非難した。議長不信任案は即時採決が原則であつた。結果は21対4、議長団の解釈が通つて日本の加盟が正式に決定した。A.C.のSchulteが立つて、先の規則に関する解釈はA.C.としての義務を果す為であり、日本と韓国の加盟を心から歓迎すると述べた。次いで大駒君が日本の準加盟に当つての決意を述べ、万場の拍手に答えた。まさに日本のAIESECが世界のAIESECになつたのだ。各国の代表がお祝を言いに来てくれた。
1963年度の役員改選が行なわれ、Congressは終つた。

〔Study Tour〕
4月7日から3日間は、米国政府の首脳部と世界の学生が話含うAIESEC Study Tourが準備されていた。AIESECの活動がアメリカではどのように評価されているかの一つの判断になると思うので、以下にそのプログラムを要約しておく。

第1日「アメリカ経済の成長と失業について」2時間の討論会
×大統領経済特別諮問委員会委員長Dr・Walter W. Heller
×ウイスコンシン選出民主党下院議員Henry S .Reuss

第2日「アメリカに於ける教育文化交流について」
×国務省教育交化担当次官補Lucius D. Battle
「アメリカ外交の直面する諸問題」
×国務次官W. Averell Harriman
「後進国開発の問題点」
×国際開発公社業務次長Harry M. Shooshan
「国際貿易、財政政策、技術協力」
×汎アメリカン機構事務総長Dr. Gose A. Mora

第3日「アメリカにおける最高裁の果す役割と司法制度」
×蓮邦最高裁判事 Mr. Justice Goldberg
「アメリカの政党政治について」
×サウスダコタ選出共和党上院議員Karl A. Williams
ニユージヤージイ選出民主党上院議員Harrison A. Williams
「アメリカにおける人類差別の問題とCivil Right Act」
×司法長官Robert F. Kennedy
「平和部隊の諸問題」
×卒和部隊事務総長Richard N. Goodurtn

第4日ホワイトハウス、ローズガーデンでKennedy大統領のレセプシヨンといつた盛沢山のスケジユールが組まれ、アメリカの国務省が全面的にバツクアツプしているとはいえ、よくこれだけの政府高官に会う手配をした、と感心した。叉彼等の外国学生とまじめに話合つてくれた態度にも感激した。私はRobert Kennedyの言葉に連邦政府の黒人問題に対する強い決意を感じ取ることができたし、ハリマンの日本経済に対する高い評価に日本の国際的地位の高まりと、それに相応する国際的責任の分担を実感することができた。AIESECとは単なる海外族行のための団体ではない。叉外国を観念的に批判する態度もこれからの日本の学生は改善して行くべきであろう。
4日間のワシントンStudy Tourは大きな希望を私達に吹込み、あつというまに過ぎてしまつた。早稲田事件を覚えていたRobert Kennedy が大駒君と一緒に早稲田の校歌を歌うなどの思い出を残した。

〔帰国まで〕
12日、ヨーロツパヘチヤーター飛行機が発つと、残つたのはラテンアメリカ諸国の代表と日本人、韓国人だけになつた。Congressの会期中私は他の仕事に忙しくて韓国の代表と十分話合う機会がなかつた。ただ彼等の提案したかつたアジアのRegional Conferenceの問題は時期尚早として賛成しなかつた。しかしアジアからの薪加盟国としてできるだけお互いに助けあうことはしたつもりだ。彼等が帰国の途中で日本に寄りAIESECの委員といろいろ相談したいということを頼まれた時、私はニユーヨークの領事館でその手続を手伝つてやつた。彼等も叉私に好意を示してくれた。

加藤さんの紹介でJapan Societyの理事長オーバートンさんにお会いして族費問題について相談した。日米文化交流の立役者である彼は愼重に私とMorganの話を聞いてくれたが、將来の方向としてはGARIOA・EROA見返り資金の利用を示唆し、アメリカの学生の族費援助の面ではChase Manhattanの金をあてることを検討してくれることになつた。加藤さんの協力を得てこの問題を上手に育てて行けば、何かこの問題にも良い解決方法が見つかるかもしれない。

ニユーヨークの電気器具ブローカーAuriemaへMorganと一緒に日本人Trainee引受けの為の交渉に行つた。率直に日本人Trainee希望者の申出る条件に応じてくれたがやはり外国のTrainee引受け会社に直接会つて話をしてみるのが書類だけの交換よりは何倍も優れている。そして同様なことは外国人Traineeの選択についてもいえるのだ。
Congressに出発する前に日本では事情の分らない無茶な議論をしていたものだつた、と反省した。
私の最後の仕事はサン・フランシスコで、Jean Azenに会い破女をPost Congressに招くかどうかを決めることだつた。カリホルニア大学の委員長Ken Cole と一緒にインタビユーしたが、「女性だから」と言つて断る理由に困る程しつかりしたTrainee 希望者であつた。彼女がLindgren Racher等に手紙を出して十分日本の事情について知つていることが私には一番好感が持てた。私はAuiemaとの交換に彼女を引受けることを約束した。

こうして1ヵ月間、AIESECの24時間を私はアメリカで経験した。4月23日羽田に着いた時私は一寸疲れていたようだつた。

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アーカイブス資料第4弾

今回は、アイセック・ジャパン設立翌年の1963年5月10日の「Student Times」に掲載されたAIESECの紹介記事です。(実際には、岡本良毅氏、萩次郎氏、千澤忠彦氏、亀田栄氏の若い頃の写真も掲載されているのですが、記事のコピーの質が悪く、ここにご紹介できないのが残念です)
世界の桧舞台におどりでた学生達
AIESEC日本支部が生まれて2年目
AIESEC(アイゼック)---という学生の国際的な活動が、いま新しい学生運動の一つとして内外から注目されている。この運動には、大学当局も財界も積極的にバック・アップ、これに“国際人づくり”の希望を託している。

新しい国際的な学生運動
では、先ずはじめに、AIESECとはどんなグループかを簡単に紹介しよう。 AIESECとは、フランス語でAssociation international des Etudiant en Sciences Economiques et Commerciales の略。日本訳にして“国際経済商学学生協会”と呼んでいるが、この訳からも大体察しがつくように、経済学部、商学部の学生を中心としたグループ。そして、日本国内の大学間、あるいは一大学内だけで組織したものではなく、もっと広く、世界中の大学が参加し、国際的にお互いの連絡をとっている。この協会の大きな特徴は、国際セミナーを開いたり、情報を交換するだけでなく、学生を海外の商社や会社に一定期間留学させるなど実務研修生の交換を行うにある。学生に将来のビジネスマンとしての国際視野を広め、また学問の実際研究にも役立たせようというのだ。協会はその本部をスイスのジュネーブにおき、いまから14年前に米国のハーバード、エール、英国のオクスフォード,ケンブリッジなど有名大学の学生の手によって結成されたが、いまでは世界の37ヵ国から245の大学がこの運動に参加、これまでに3万人近い学生が交換研修生として参加国間の企業を往来したという。学生交換といえば、大学相互間で行われるのがこれまでの常識で、こうした学生と企業との結びつきによる幅広い活動は珍しい。それだけに学生と実業界が互いに協力していく産学協同の新しい学生運動のひとつとしてその成果が期待されている。

日本支部誕生は昨年7月
この協会の支部である日本委員会が誕生したのは昨年の7月のこと。その2ヵ月前の5月、「元AIESEC本部事務総長」の名刺をもったドイツ人、バート・トーマスという学生がひょっこり日本を訪れた。そして、東大、一ツ橋、早稲田、慶応の4大学の学生自治会を訪問して、AIESEC活動について説明、日本学生の参加を要請して帰ったのがそもそものはじまり。早速、4大学学生有志が合同で創立委員会を開き、顧問欠くとして4大学の教授からなる理事会(代表 木村重義東大経済学部教授)を設立、正式に入会許可が決定するまで、その仮称をAIESEC(International Association of the Students in Economics and Commerce)と名づけてスタートした。ところが、早くも海外から研修生交換の申し込みが舞い込み、昨年8月、交換研修学生の第1弾として、米国のシカゴ大学からロバート・リンドグレン君が野村証券東京本社へ、西独のザール大学のフランス・ベッカー君が三菱銀行本店にやって来た。これと交換に、日本からは東大の宮脇淳光君がイタリアのナポリ銀行へ、一ツ橋大の久保田博政君が米国のポートランド・パブリック・ドック社へ、また慶応大の亀田栄、千沢忠彦の両君が、ホンコンの貿易会社ジャーデン・マセソン社と西独の電気メーカー、ジーメンス社へそれぞれ約3ヵ月間、夏休みを利用して実地研修に出かけていったのである。

初の交換研修生リンドグレン君
この日本委員会の発展に大きな役割を演じたのは、シカゴ大学から、初の交換研修生として日本にやって来たリンドグレン君。同君は野村証券での約3ヵ月間の実務研修を通じて、「日米証券市場の比較」という立派な研究論文を書き上げ、同社の川島章司常務を感心させた。これがきっかけになり、野村証券では、AIESECに“今後も教会の活動に全面的に協力する”と資金援助を申し出たばかりか、関連企業にも積極的に呼びかけて、この活動の有意義なことを学生にかわってPRしてくれるようになった。また、これを聞いた日経連の前田一専務理事も、経団連、同友会、日本商工会議所に働きかけて同協会をバックアップする顧問会議を創設、4団体さん下の企業主を集めて説明会を催すなど、この運動は大学・学生・財界三者一体の前例のない学生運動にまで発展した。日経連の前田一専務は、“企業家の理解もあり国際人づくりには好適のグループだ。企業の利益のためとい・ YX ・Δ茲蠅癲△爐靴躱?茲凌雄牋蘋・箸いβ膓錨・・呂卜・辰同臀・鬚劼?Δ韻拭匹叛睫世靴討い襦がこうして現在までに、同日本委員会は米、伊、西独、香港,韓国へ8名の研修生を送り,海外から5名を招いている。

外国の商社で実務研修3ヵ月
では、研修生とは実際にどんなものか、何を学ぶのか、西独と香港に派遣された千沢、亀田の両君に聞いてみよう。
“研修期間は本人の希望によって自由ですが、普通6週間から6ヵ月ぐらい。もちろんその間の生活費は相手の企業が全部支給してくれることになっているのです。ただし、渡航旅費は個人負担ですがネ”と両君は口を揃えて説明したが、亀田君の場合(香港・ジャーデン・マセソン社)は、月給3万5千円の一般見習社員並み、宿舎はAIESECの香港委員会の世話で、香港大学の学生寮であった。研修は、同社の「幹部社員養成コース」のプログラムに従って、1週間単位で輸入、保険、中日貿易、海運、経理、茶□業、棉花、工業の各部を回わり、部長から業務内容の講義を受けたのち、簡単な業務、例えば書類の整理などの仕事を手伝う。そして、月曜から金曜まで学んだことをレポートにして毎週提出、その場でレポートを中心に担当部長と討論を行なうといった強行軍だったようだ。もちろん、すべて英語なので、講義が充分聞きとれず、とくに商業英語の知識不足を痛感したと亀田君は語る。
千沢君の場合は、月給3万円。西独の生活水準(大学初任給4万5千円)から比べると、あまり待遇はよくなかったというが、親切な未亡人宅に下宿したのと、会社内の雰囲気がよく、楽しい3ヵ月だったという。亀田君と異なって、研修は初めの1週間を貿易課で事務の手伝いをし、その後はもっぱら、販売課でドイツ人のアルバイト学生と一緒に書類の処理や、カードの整理などを手伝ったそうだ。語学はすべてドイツ語で、千沢君の場合は語学のハンデイはあまり感じなかったとのこと。こうした3ヵ月の研修を通じて、得た成果について両君はこう語る。
"私が溝義をうけている間、課長の仕事は完全にストップしている。私はこれに対し、何だか事務妨害しているようで心苦しかった。それで、課長に自分の気持を打ち明けたところ、その課長はこういった。「書類にサインするのは私の職務だ。だが、生涯の犬半を生きてきた自分が、体験、経験から得たものを次代の人に譲り与えることも私の義務だ。国境は問題じゃない。同じ時間に生きる人間同志として物事を考えよう」ど。私は本当に感動しました。僕もこうした意義ある□能を果たす人間になりたいと思ったものですよ“(亀田君)
“僕たちは、あまり日本の企業については知らないので、比較はしにくかった。何かにつけて合理的なドイツに、国民性の相違を痛感しました。と同時に、何か視野が広くなったようで、考え方に余裕がもてるようになりました”(千沢君)そして、“お互いに制度、習慣こそ違え、話せば通じる同じ人間であることを知った”と両君は結んだ。視野が広まり、国際感覚を体得したことが最大の収穫だったようだ。

第2回研修生を選考中
今年も、夏休みが間近い。誕生してからまだ1年もたたない日本のAIESEC活動だが、この3月正式にAIESECに入会が許されたという国際的信用と財界の積極的なバック・アップによって、いま、日本委員会は、第2回研修生の選考に東奔西走している。今年は、米国へ7名、ヨーロッパへ7名、東南アジアへ6名、合計20人を派遣する予定だが、一方、野村証券、三菱、三井、東京など大手銀行のほか、日立、ソニー、シェル石油など数十社が、外国学生の受け入れ方を申し込んでおり、予想外の反響に、委員たちは将来に明るい希望を託している。
同委員会の委員長、岡本良毅(一ツ橋大4年)は、日本のAIESEC活動の将来についてこう語っていた。“近い将来に、4大学だけでなく、各地の大学にも呼びかけて組織化していきたい。と同時に、派遣人員も極力多くし、ヨーロッパや米国で行っているように、航空機を1台チャーターして、学生負担の旅費の軽減をも考えています”。そして、日経連の前田専務理事は、こう呼びかけている。
“青年諸君!若い情熱を建設的方向に傾け給え。君たちの力が国際舞台において輝かしく光を発する時に日本の真の充実があるのだ…”と。


Student Times
Friday, May 10, 1963

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アーカイブス写真館(No.4)

imageKoizumi1.gif

1963年夏、野尻湖で開かれた慶応LCの合宿の時の写真です。右端に写っているのは小泉純一郎首相の若かりし頃のスナップです。

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アーカイブス資料第3弾

今回は、AIESEC設立当初に「サンケイ新聞」に掲載されたAIESEC紹介記事が慶応LC1964年卒の千澤忠彦氏より届きましたのでご紹介します。(メニューの「かわら版:07アーカイブス資料館」をクリックしてご覧ください)

昭和37年12月28日金曜日発行『サンケイ新聞』

『横顔』

「学生運動が、ともすれば破壊的な方向にばかり走るとき、世界各国の学生が就職前におたがいの国の会社で“研修留学”するAIESEC(国際経済商学学生協会)の活動は、非常に意義のあるものだと思いました」--- 同協会の日本委員会を設立するのに努力した金子正人君(21)=日本委員会委員長、慶大経済学部四年=は設立の動機をこう説明する。
 ことし四月、IASECの“先輩委員”であるドイツ人、B.M.トーマス氏が来日して「ジュネーブ(スイス)に本部があり三十七か国から二百四十五の大学が参加している」と聞かされたときは“まさか”と半信半疑だったそうだ。
 それがトーマス氏の努力で、千沢忠彦君(21)=慶大経済学部三年=ら四人が第一回研修留学生としてベルリン、ナポリなどに行ってきて、りっぱな団体であることがわかったので「こんごはさらに多くの大学に参加をよびかける」という千沢君はベルリン大学でアメリカ、インドなど各国からやってきた六十人ほどの研修留学生に盛大に歓迎され、びっくりしてしまった。
 それにヨーロッパの一流会社では“IASECの留学生です”というと、非常にしんせつにしてくれるという。
 千沢君はことし八月から三か月間、西独のジーメンス社で、新入社員のように事務実習をしてきたが「ドイツ人は時間をよく守る、勤務中に抜けてお茶を飲むなんてことはしない。事務用品も一枚の紙といえどもムダにしないし、それに正しいと思う意見は堂々とのベ、いいかげんですますことをしない」---こうした点は自分達も就職したら実行しなければノと留学の成果をのべていた。
 金子君も来年二月、アメリカ・シカゴのルスト・オリエム商社へ研修留学し、同時にIASECのアメリカの組織を見てくるそうだが「ともかく、われわれが一人でも多く各国の人に会って、おたがいに親しくなることが、より日本を理解してもらうことになる」と大きな夢をもっている。
 いまは、東大、早大、一橋大、慶大の四校で百五十人の会員だが、日本経営者団体連盟など経済四団体が積極的な援助にのりだすというので、会の発展も明るい見通しだと金子君らは喜んでいる。

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IASEC-NEWS 発行に当たって

IASEC-NEWS.jpg
IASEC-NEWS 発行に当たって
委員長金子正人

最近、国際経済商学学生協会は、その趣旨に広く各界からの賛同を得て多くの方々から御指導と励ましを頂いている。国際親善と経済学・商学の実際的研究を目的とし、外国企業への研修留学を特徴的手段とする当協会の必要性を叫んできた我々にとつて暖い御支持の声を耳にするのは何よりもうれしいことである。と同時に、その期待への責任を考える時、身のひきしまる思いに至らざるを得ない。趣旨は我々の断乎として確信するところであるが、その趣旨実現への道程はなだらかなものではない。我々はこの道程がいかに厳しくけわしいものであろうともやりとげなければならない。既にそれだけの社会的責任が生じているのである。
困難な道程を走破する為には、更に多くの方々に、深い理解を頂かねばならない。深い理解を獲得するには、一つに若き我々の青年的情熱であり、二つに正確な資料と将来への冷静な計画である。前者は、全身的感性の産物であり、後者は、知性と理性のそれに他ならない。協会組織全体としてこのどれを欠くことがあっても成功は望めない。人間には適性があるから各人が比較優位を有する部署について全体的調和を計ればよいが、前提として全ての人が全てのことを知っている必要がある。それが組織に加わる人達の自主性を確立し、ひいては、組織自体の自主性を確かなものにし、大なる信頼を得る源泉となろう。
「正確な資料の提供」の一努力としてこのIASEC-NEWS発行を試みた。海の彼方では単行本と見まごうばかりに立派なものが作成されている。やがては日本にも実現する日が訪れよう。このNEWSはその第一歩を踏み出したものである。
X X X X X X IASEC-JAPANの歩み:
一層の飛躍のために(注:設立時は、暫定的にIASECと称していた)
AIESEC-JAPANの活動もどうやら軌道にのり始めました。そこでAIESEC-JAPANがいかにして生まれ、また育ってきたか、その一見複雑でかつ興味ある歩みを簡単にまとめてみました。

(日本への最初の接近)
1960年夏、ハインツ,ベイジというアメリカ人学生が来日、早大と腿応に設立準備委員会を設け、大使館、経済団体、企業等にAIESEC活動を紹介した。そしてこの報告にもとづいて当時のAIESEC事務総長ロウエンシユタインはイタリアのN.C(国内委員会)委員長であるフォデラを極東の担当理事に任命した。しかし、ペイジ工作はそれにも拘らず一応立ち消えとなった。

(トーマス現わる)
ところでIASEC-JAPANを認る時絶対に落ぜない男、それはトーマスだ。彼は・かつてIASEC事務総長をやつたこともあるドイツ人学生だが、彼が1961年9月14日にニユLヨークで行われたIASECの諮問委員と名誉役員との会合に招かれた。そしてそこで組織活動の為の研修生を受入れた。タイム・ライフ東京支社を拠点にアジアでのIASEC活動を組織することを受諾したのである。ところが1961年11月に開かれた各国代表者会議に於て、1962年?63年に於けるIASECの拡張計画の中にアジアは含まれていなかつた。これに対してトーマスは次のような見解をとつたのである。即ちIASEC計画を各国代表者会議の決めた地域以外に紹介することはかまわないのだという考えである。それ故彼自身IASECの代表者叉は名誉役員としては行動しないし、又IASECをアジアに拡張するのではなく、独立した組織の枠内でアジアの学生がIASECの活動を行うことを援助すうという形をとったわけである。即ちIASECとは別個の独立した組織をアジアに作ろうとし、それを IASEC (International Association of the Students in Economics and Commerce)と名付けた。
そしてAIESECと同様の研修生交換計画及びその他の国際間の活動をアジアの学生自身の手で行こうと等を決め、全世界的なAIESECが可能になる迄の一時的な措置として、AIESECに出来る限りの協力を要請した。そして1962年
6月30日までトーマス自身が名誉書記としてその役立に努力することになり、事務局を東京のタイム・ライフ支社におくことに決めたのである。彼はこの線にそって精力的に動いた。1962年1月いっぱい、インド、ホンコン、フイリツピン、タイワンを歴訪、IASEC-ASIAの役立のために実業界、学界の要人達と懇談した。続いて2月20日から4月14白まで東京を中心として、4月16日から28日まで東京以外の地域に於て、日本の実業界学界の要人達と会いIASEC-ASIAの構想を話して、その協力方を要請し、賛意を以つて迎えられた。

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アーカイブス写真館(No.3)

木川るり子さん(1980)から送られて来た1976年のAIESEC Summer Seminar(於:八王子セミナーハウス)と1977年夏に行われた慶応LCの合宿(於:妙高・野尻湖)のときの懐かしい写真をご紹介します。アーカイブス写真館では、70年代、80年代、90年代の写真もどんどん掲載していきたいと思っていますので、事務局まで送っていただければ幸いです。(紙焼の写真はスキャンした後、責任をもって返却致します)

1976 AIESEC Summer Seminar
Seminar_1977.jpg
Seminar_1977_B.jpg
Seminar_1977_C.jpg

1977 慶応LC夏期合宿
Keio_1977_Gasshuku.jpg

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卒業記念プラック

1967年卒の小嶺敏郎氏から当時卒業時にメンバーに記念として贈呈されていたプラックが届きましたので写真にして掲載します。

Plaque.jpg

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アーカイブス資料第2弾

今回は、1963年10月15日に発行された『AIESEC-JAPAN NEWS 特別号』の中から、当時の会長木村重義先生(東大経済学部教授)の巻頭と早大LCの川島宣征氏(1965卒)による「AIESECについての安心と心配」という文章をご紹介します。尚、前回資料(1962年12月)も後半部分を追加しておりますのでご興味のある方はご覧ください。

1963年10月15日発行『AIESEC-JAPAN NEWS 特別号』

AIESECについての安心と心配
木村重義(アイセック・ジャパン会長/東大経済学部教授)

この九月はじめに第一回のAIESECデイズをもよおしたことが、この協会がそのあと第二年の行事に入ったことをはっきりと告げるように感じる。わたくしとしては、協会のこれまでの経過について、ひとまず満足をおぼえるのである。学生は「よくやつたし、多くの企業に良き理解者があつた」とおもう。
協会の活動は年間を通していつもせわしいということはないが、しかし、学生の一般的なクラブ活動的なことにくらべて、おしなべて活発なほうであるし、外国人研修生の世話や企業への働きかけに従事するひとおよびナシヨナルコミテイの責任ある地位にあるひとは、はなはだ多忙な時期があり、ひとによっては、常時この協会会の活動に学生生活の基調をあわせなげればならないということにもなる。熱心な学生諸君によって創設の第一年は成功したと言うべきである。

協会の活動目的は描象的には明瞭に述べられるが、実際にはかならずしも明白ではない。国際経済商学学生協会という名称があたえる印象は、経済学・商学を研究する学生の国際的交歓の機関であるように見える。本会は「学会」ではないが、「学生」の国際的な団体であるので、もとより経済学・商学の広い視野における研究と無縁ではありえない。国際的セミナーは目的のうらに入っていなければならないが、当面、主として行なわれていて、本会の特徴であるものは、国外企業における研修生活である。わたくしはあえて研修「生活」と言いたい。外国産業――広い意味で――の実地の見聞が、協会に「入会」する学生諸君の目標でなげればならない。このことについては、学生が集団で行なうのではないから、個々の学生の個人的生活の、あるいは経歴の重要な一部を形成しようというわけであって、協会はそのような学生の共通目的における協同にほかならない。

そこで、望ましいことは、多数の学生話君が、たとえ短期間でも研修生活を外国で経験してくることで、そこに本会の目的もあるのだが、わがくにの地理的条件によって、また環境において、多くのひとが欲するところへ容易に行けないことはほんとうに残念で、わたくしもこの困雑を解決する途をいろいろ考えている。要するに、国外に出かけ、国外から来る内外の学生の旅費の問題となるが、それはまた、われわればかりでなく、まつたく一般に多数の日本人と外国人の問題でもあるので容易に解決できない。それだけに教会は別の面での事業活動をも考慮する必要があるのではなかろうか。

日本委員会としての本協会は現在四つの大学の学生会員からなつていて、その間の共同一致はいままで好調であつた。内部的な問題ではあるが、それだけにこのことはわれわれの心配の種であって、すくなくとも現在の規模以上のものは維持しつづけなげればならない。主体である学生は絶えまなく入れかわるのに、主体性を保ちながら続いてゆくものとして、このことを自覚した指導者が存続しなげればならないのである。

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何を期待するのか?  川島宣征(AIESEC-DAYS特別小委員会委員長)

昨年AIBSBCが日本に生れて早くも一年が過ぎました。この間種々の困難にも拘わらず目覚しい発展を遂げました。一周年を迎えた今日私達は、ガムシヤラに進んできたその年を回顧し、これからの進むべき道を確かめてみるときだと考えます。
顧みるとき、この素晴らしい成果が会員の精力的活動を要求し、多数の有能な学生の学問の面での犠牲を強いていたことも否めません。私達は学問を実践との関連においてとらえるというAIESECの本来の姿を思い出すとき、学から遠ざかることは私達にとり、致命的であると考えます。
このこうな反省のもと、私達AIESEC-DAYS特別小委員会はAIESEC-DAYSの企画を今後のAIESECの方向への一資料となすべく意図致しました。即ちAIESEC活動の意義をここで再認識し、明確にする必要性を痛感するのです。

現在、オリンピツクを来年に控え、多くの若き青年達は海外旅行という熱病にとりつかれています。これを契機に従来日本国内に留まり、その視野があるいは限定されていた欠点が認識され、国際的感覚を身に備え得るなら素晴らしいことと言えましよう。しかし、同時にこの熱病を利用した悪質なサギ師が新聞に報道されていますが、彼らに利用される青年達の存在を考える時、素直に喜んではいられなくなります。多分に、海外に出ることが困難で一生に一度の大冒険と考えられていたことも原因しているでしよう。現に、交通費の多額なる故に、日本を出たり、入ったりすることは困難ではあります。しかし、文明の発達と共に、世界は一つになろうとしております。今や、私達は、世界を考えずには生きられないのです。日本の一学生では許されません。世界の一人間なのです。世界を知り、しかる後に、日本を再認識し、日本人としての誇りをもつた国際人としての意識が必要ではないでしようか?

私達AIESECの主な活動は、研修生交換です。国際的感覚を備えた人材の育成を立派に唱っております。1962年度は5名送り出し、今年度は16名の学生の送り出しに成功してまいりました。彼らは外国企業にて、研修を受け、そのうちある者は既に帰国しており、又現在未だ研修中の者も居ります。しかし、その中には野菜の数を調べる研修を受けている学生も居ると聞いています。何が不足なのでしようか。組織としてのAIESECの今迄の活動に欠げている物があるのではないかしら?
私達は学生です。考える目由を持っています。考えましよう!

いったい、私達は外国に行き何を学ぶのでしようか?外人と交際して何が得られるのでしようか?このような疑問を全体で考えたことが何度かあつたでしようか。或る人はそれこそ「国際的感覚を身につける」ことと簡単におつしやいます。成程そうでしよう。
だが、果して私達の何人A身をもつて感じているでしようか。私は卒直な疑問を諸君に呈したい。勿論各人各様の意見を持ってしかるべきであります。しかもその意見にはその人の人生観の裏付けが必要です。

私達は学生です。再びこう言います。しかしこの言葉を使う場合、社会と隔離された、甘えられる立場に居ることと同義と考えてはいけないでしよう。やはり社会人なのです。私は学生とは「自由に考えられる自由人」たる機会に多く恵まれているにすぎないと、解釈しております。しかし真に「自由人」としての意識を持つなら、私達は社会の一構成分子と考えるべきです。"自由人"は社会に出てこそ考える自由を持って行動するのです。私達AIESECこそ、私達を援助下さる多くの方々から多大にこれらを要求されているのです。社会的責任は極めて大と申すべきです。

私達は、外国に行くことの意義を、もつと真険に話し合わねばなりません。と同峙に、外国に行く為には、その目的に近づく為には準備するもの、すべきものは何でしようか。

第一に語学能力です。語学は目的達成の手段にすぎません。しかし、そう言うことによって語学の重要性を否認することはなりません。外国人を理解するには、彼らの語学によらねばならぬことは誰しも認めることです。日本語或いは、その国の母国語以外の第三外国語では、相互理解への困難は増すことでしよう。最低限、その国の国語を修得すべきです。外国語で物事を考えられねばならないのは当然です。

次にAIESECの相互交換が、他の組識と性格を異とする点に注目しましよう。はい、企業での研修です。これを如何に評価すべきでしようか?何度も申し上げます。私達は学生です。経済学・商学を専攻する学生です。私は大学とは種々の「物の見方」を見聞し、一つの学問を専攻し、その「物の見方」を吸収する場と心得ます。そして、大きな問題の一つが理論を実践に結びつげることと思います。それ故、私達は学問を実践との関連において追求することこそ、真に私達の取るべき姿ではないでしようか。自己の持つ、物の見方、考え方を実際に応用する場として、企業での研修を評価すべきです。そこにおいて、生の経済学・商学を学び得るのです。その為には、当然上述の語学力と、理論の裏づけたる学問追求の態度です。今迄は、組織作りに追われ、学問追求の面が欠けていたことを反省しますと、それこそ今後私達の進むべき道ではないかと感じます。

第三に相手国の研究です。私達の研修期間が6週間?3ケ月である故、この短期間を最大限に利用しなければなりません。その為には、国内にて、相手国の研究を充分に尽くすことです。

以上の5点が、最も重要な準備だと思います。完全な準備によって、相手国を理解し得るのであり、且つそこから日本を再認識するでありましよう。
これらは私の持つ一つの考え方です。今後これらについて諸君と共に考えたいと思います。AIESEC-DAYSにてこの第一歩を踏み出します。

X X X X X

AIESEC-DAYSとは?

AIESEC-JAPANでは、私たちの活動をより充実させる為に、4泊5日のセミナー旅行を企画致しました。即ち、日本で研修を受けているTraineeと日本人学生が一同に会し、経済問題に関する討論会を開き、講演を開き、又企業見学を行い、パーテイー、旅行を通して国際理解を深め、友好関係を促進し、しいては世界平和、人類の繁栄に一役買おうとするものであります。これが、私達のAIESEC-DAYSでした。このScheduleを追って紹介しましよう。
<9月5日>
午後5時、外人Trainee 11名、日本人参加者特別小委員会メンバー、N.C. President、L.C. President、その他計40名近くが集まり夕食を共にしながら説明と同時に前夜祭的交歓会を開く。場所は日本相互銀行の上野毛研修所。設立後まもないベッド、バス、プールすべて立派。身に余る光栄。日本相互銀行には、当日の宿泊、食事又後述の如く他に多くの援助を受けました。当銀行自慢の会議室を利用させて戴き、食事の後スライド映写を楽しむ。
<9月4日>
いよいよ初日9痔より東商国際会議室にて開会式を開く。上野毛より大型バスを借り切つて乗車、空気調整のついたゆつたりした乗り心地。45分程いたるところ工事中の道格にゆられ、東京の中心部につく。
東商国際会議室。これは驚いた。日本一立派な会議室ではないかしら。出席者100名程度。川島特別小委員会委員長の「開げゴマ!」安井日本委員会委員長、木村協会会長の型通りの開会の挨拶。外人研修生代表Mr. Pesonnenの祝辞。開会式は終りました。
さて講演が始まりました。日本BIAC事務総長、神野正雄氏の講演、題して「世界経済における日本」、続いて東大教授内田忠夫先生「戦後日本の経済発展」全員緊張して日本経済の概説講義を受く。
講演の後、部屋を食堂に移し、昼食の時間記念写真をとつて休む間もなく、工場見学、ソニーの品川工場へ。概略的フイルムを見てから、工場内を急いで一周。続いて会社の方々と何故ソニーが発展したか?などの話合。世界中に有名なソニーは、外人研修生は勿論、私達日本人も一度は見たい場所でした。
ソニー工場を後にして、25名の参加者を乗ぜたバスは一路箱根へ。箱根は山一証券の紹介で、仙石原、富士見荘に泊る。私達のセミナーを開くには最高の場所。今日一日は時間に追われ、しかも遅い夕食で疲れた模様。しかし、若い元気者同志。プールに分れ、卓球その他の娯楽設備を楽しんだり、グループになつて楽しいお話。この頃から早くも日本人参加者は疲れ気味だが、外人研修生のタフには驚かされる。
<9月5日>
朝早く6時50分に起こされ、さすがに前日の疲れを感じてブーブー泣く者あり。軽い朝食のあと待望の討論会第一回。この内容については他のページ及び、英語版報告書Bulletinにあるので重複を避ける。3時闘もの討論を終え、昼食、パスにて芦の湖見物。ボートを楽しむ。再び宿舎に帰り、各自思い思いの時間を過ごす。前日に続いて今日はテニス、カード、ゲームを楽しむグループも登場。夜遅くまで話合つたり楽しんだり。
<9月6日>
今搦も早い。前日と同じく。午前中9時?12峙の5時尚、第2画討論会を開く。討論会も次第に調子が出てくる。昼食後の自由時間の後、3時にいよいよ箱恨を出発東京に向う。途中鎌倉に立ら寄り、大仏、八幡宮を見学す。
(鎌倉の大仏を見る時は、既に前日以来の疲れの累積したといつた表情だつたが、米国人学生の中に大仏に卒直に感激した研修生が居た。宗教は異なり、彼らには仏教は理解し得ないだろうが、大仏のきりつとしまつた鼻、奥ゆきのある目、やさしみある顔、この調和のとれた優雅な美こそ、宗教を越えて彼らを魅了したのだろう。)
東京は上野毛の研修所に再び御世話になる。
<9月7日>
借り切りパスは利用せず、ラツシユの時間(8時?9痔)に、上野毛から東京駅に電車にて向う。
9時50分より東京都庁にて都市作りの説明を聞き懇談会を開く。日本経済のあらゆる矛盾の内包される東京都。大都市問題は決して東京だげではない。ロンドン、ニユーヨークやはり共通の悩みを持つています。
都庁を出て、東京駅周辺の道路状況を視察しながら、呉服橋際の日本相互銀行本店に着き、相互銀行ホールを利用させていただく。最終討論会である。「自由化に備える日本の企業」の総括的討論である。(討論参加数20名傍聴100名)途中から東大内田教授が飛び入り参加され議論白熱す。12蒔50分より3時闘の討論を終え直ちに閉会式を兼ねてDinner Party を椿山荘で催す。尚、日頃当協会に御援助をお願いしている多くの企業の方々をお招きする。
各大学の諸先生、各企業の社長を始め代表者の方々多数御臨席下さる。先ず茶道を見せ閉会式も無事終了す。次にDinner。3日分の食事を一度にとり返すつもり。
最後のリセプシヨン、プログラムはダンスパーテイー、三福会館にて会員だけの親睦を深め合う。

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アーカイブス資料:<IASEC-JAPAN News No.1 : 1962年12月発行>

IASEC-NEWS.jpg

IASEC-NEWS 発行に当たって
委員長金子正人

最近、国際経済商学学生協会は、その趣旨に広く各界からの賛同を得て多くの方々から御指導と励ましを頂いている。国際親善と経済学・商学の実際的研究を目的とし、外国企業への研修留学を特徴的手段とする当協会の必要性を叫んできた我々にとつて暖い御支持の声を耳にするのは何よりもうれしいことである。と同時に、その期待への責任を考える時、身のひきしまる思いに至らざるを得ない。趣旨は我々の断乎として確信するところであるが、その趣旨実現への道程はなだらかなものではない。我々はこの道程がいかに厳しくけわしいものであろうともやりとげなければならない。既にそれだけの社会的責任が生じているのである。

困難な道程を走破する為には、更に多くの方々に、深い理解を頂かねばならない。深い理解を獲得するには、一つに若き我々の青年的情熱であり、二つに正確な資料と将来への冷静な計画である。前者は、全身的感性の産物であり、後者は、知性と理性のそれに他ならない。協会組織全体としてこのどれを欠くことがあっても成功は望めない。人間には適性があるから各人が比較優位を有する部署について全体的調和を計ればよいが、前提として全ての人が全てのことを知っている必要がある。それが組織に加わる人達の自主性を確立し、ひいては、組織自体の自主性を確かなものにし、大なる信頼を得る源泉となろう。

「正確な資料の提供」の一努力としてこのIASEC-NEWS発行を試みた。海の彼方では単行本と見まごうばかりに立派なものが作成されている。やがては日本にも実現する日が訪れよう。このNEWSはその第一歩を踏み出したものである。

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IASEC-JAPANの歩み: 一層の飛躍のために
(注:設立時は、暫定的にIASECと称していた)

IASEC-JAPANの活動もどうやら軌道にのり始めました。そこでAIESEC-JAPANがいかにして生まれ、また育ってきたか、その一見複雑でかつ興味ある歩みを簡単にまとめてみました。

(日本への最初の接近)
1960年夏、ハインツ,ベイジというアメリカ人学生が来日、早大と腿応に設立準備委員会を設け、大使館、経済団体、企業等にAIESEC活動を紹介した。そしてこの報告にもとづいて当時のAIESEC事務総長ロウエンシユタインはイタリアのN.C(国内委員会)委員長であるフォデラを極東の担当理事に任命した。しかし、ペイジ工作はそれにも拘らず一応立ち消えとなった。

(トーマス現わる)
ところでIASEC-JAPANを認る時絶対に落ぜない男、それはトーマスだ。彼は・かつてAIESEC事務総長をやつたこともあるドイツ人学生だが、彼が1961年9月14日にニユLヨークで行われたAIESECの諮問委員と名誉役員との会合に招かれた。そしてそこで組織活動の為の研修生を受入れた。タイム・ライフ東京支社を拠点にアジアでのAIESEC活動を組織することを受諾したのである。ところが1961年11月に開かれた各国代表者会議に於て、1962年?63年に於けるAIESECの拡張計画の中にアジアは含まれていなかつた。これに対してトーマスは次のような見解をとつたのである。即ちAIESEC計画を各国代表者会議の決めた地域以外に紹介することはかまわないのだという考えである。それ故彼自身AIESECの代表者叉は名誉役員としては行動しないし、又AIESECをアジアに拡張するのではなく、独立した組織の枠内でアジアの学生がAIESECの活動を行うことを援助すうという形をとったわけである。即ちAIESECとは別個の独立した組織をアジアに作ろうとし、それを IASEC (International Association of the Students in Economics and Commerce)と名付けた。
そしてAIESECと同様の研修生交換計画及びその他の国際間の活動をアジアの学生自身の手で行こうと等を決め、全世界的なAIESECが可能になる迄の一時的な措置として、AIESECに出来る限りの協力を要請した。そして1962年 6月30日までトーマス自身が名誉書記としてその役立に努力することになり、事務局を東京のタイム・ライフ支社におくことに決めたのである。
彼はこの線にそって精力的に動いた。1962年1月いっぱい、インド、ホンコン、フイリツピン、タイワンを歴訪、IASEC-ASIAの役立のために実業界、学界の要人達と懇談した。続いて2月20日から4月14白まで東京を中心として、4月16日から28日まで東京以外の地域に於て、日本の実業界学界の要人達と会いIASEC-ASIAの構想を話して、その協力方を要請し、賛意を以つて迎えられた。

(国内に於ける動き)
一方国内に眼を向けると、1962年5月12日に国際交化会館で第一回東京統合委員会がトーマスの主催で開かれた。早、慶、東大が出席、金子(慶)を創立委員の書記長に大槻(早)を渉外小委員会の理事に任命した。続いて6月1日慶応大学で第二回の会合が開かれた。この時から、一橋大も参加した。組織化及び活動方鉢などが検討された。この間トーマスを中心として研修生交換のための手紙のやりとりを5月いつばいかけて行つたのである。その結果、各国の大学と個別的に接衝し、日本との研修生交換に成功しているのである。そしてこの頃、内部に於ては組織に関して各大学が異った考え方を主張して譲らないため、東京統合委員会の活動は不活発になるという事熊に立ち入つたのである。しかし第三回東京統合委員会が6月15日早大で開かれ、四大学の出席によりIASEC宣伝のためのパンフレットを作成する事が決定した。
6月20臼、トーマスはIASEC-ASIAの名誉書記の任期を経った。トーマス自身、所期の目的を完遂ずることなくして、任を去ることに心残りを感じていたらしい。その日の国際AIESEC事務局役員にあてた手紙の中で、AIESECがIASEC-ASIAに協力してくれるよう要請し、そのことが、AIESECにとつてもIASEC- ASIAにとつても利益になることであると力説しているのである。IASEC-ASIAの名誉書記の後任はアメリカ人研修生リンドグレンが予定されていたが、彼の辞退にあい、空席となった。7月6日第四回委昌会が産経会館で開かれた。一橋大からは久保田、山田、慶応は金子、亀田、東大は宮脇、早大は矢野、黒木が参加した。席上トーマスは、リンドグレンをアメリカからの第一回研修生で、今夏に於ける日本の組織の助言者として紹介した。そして、研修生派遣の予定として宮脇(東大)をイタリアへ、藤田(東大)をホンコンへ、萩(東大)を韓国へ久保田(
一橋)をアメリカへ、千沢(慶応)をドイツへ、亀田(慶応)をホンコンへ、金子(慶応)をアメリカへ派遣することになった。来日する研修生としてはリンドグレン(アメリカ)を野村証券に、ベッカー(フラソス)を三菱銀行に又ステイーブ(ドイツ)を日興証券に迎えることになった。だが、藤田、萩、金子、スティーブの場合は実現しなかった。それから東京委員会の連絡事務所の住所として慶応の外事部に決めた。

(トーマス帰国す)
7月21日トーマスは帰国の途についたのであるが、その前日東京統合委員会に色々なことを言い残している。
東京統合季員会はまず、日本IASEC憲章を制定すべきであり、しかも東京以外の各大学からも代表が派遣されて制定されることが望ましい。慶応に住所を決め、経済同友会又は他のスポンサーに助言者になりそうな人々のすべてを召集することをお願いして顧問団会議を結成し、この結県を新聞にのせ、公式的に他の中央機関に翌年度の研修生引受け提供を依頼すべきである。このような事を言い残して、トーマスは帰っていったのである。

(IASEC-JAPAN設立さる)
彼が離日してから3日後リンドグレンの研修を引受けていた野村証券から当協会に呼出しがあり、野村証券がIASEC活動に非常に興味があり、支援の用意があるとの連絡があった。7月31日東京総合委員会はIASEC-
JAPAN日本委員会とその名称を変更、委員長に金子正人、議長に大槻聰幸、又その他の役員を選出し、再発足することになった。そしてその日、第一回執行委員会が開かれた。8月1日には懸案となっていたIASEC- JAPAN憲章が刷り上った。翌2日には三菱銀行にベッカーの研修契約について聞きに行った。これはトーマスが日本に居た時に獲得に成功したものであるが、三菱銀行は好意的であつた。8月6日、第二回執行委員会開かれる。IASEC-JAPANのパンフレット作成のため、四大学の教授(東大:木村先生、慶応:山本先生、一橋:板垣先生又は吉野先生、早大:中島先生)の賛同書を戴くことに決めた。この頃からIASEC-ASIA とIASEC-JAPANとの関係が論じられ始めた。またこの日野村証券から、当協会に対して金銭的提助の申し出があつた。又この頃連日、リンドグレンと会いAIESEC-U.S.について質問した。そして、トーマスの残した資料を整理し始めた。
8月13白、第三回執行委員会が開かれた。活動計画表を作る。8月中は幹部教育に専念することに決定、8月15日野村証券に於て会食、野村証券川島常務取締役がこの運動に大いに賛成しておられる旨伝えられる。8月18日、第四回執行委員会行われる。そこで以下のことが決定した。まず1963年3月アメリカのプリンストン大学で行われるAIESEC国際会議になるべく参加するよう努力する。そしてIASEC-JAPANの立場を我々自身で主張することを決定。次にIASEC-JAPANの構想を押し進めるよう専念することにしたのである。というのはトーマスが予定していた後任が空席となり従ってIASEC-ASIAの東京事務局はトーマスが東京をたった時にもうなくなったからである。これによってIASEC-JAPANはAIESEC加盟を第一目標とし、他のアジア諸国とは個別的、相互的に交換するに止めることにした。日本を除く他のアジア諸国間の交換までは事務を引受けることは出来ないとしたのである。だがアジアは基本線としてあくまで尊重することを確認した。8月21日22日大聖院に於て第一回セミナーを開いた。諸問題があらゆる角度から検討された。8月24日ベツカーが到着した。8月25日椿山荘でベツカー及びリンドグレン歓迎会が催された。8月31目、第二回常任委員会開かれる。今後の活動目標として、1963年の研修生派遣目標は20名とすること、ジユネーブの国際AIESEC事務局にIASEC-ASIA並びにJAPANについてどのような考えを抱いているかを問いただすこと、1962年度予算案を作成することなどを決めた。

(教授団、野村証券にて会合す)
東大木村先生、慶応山本先生.一橋吉野先生と野村証券川島常務取締役とが会合をもちIASEC-JAPANの今後の活動について色々協議した。9月9日、第六回執行委員会開かる。顧問団結成のために早急の努力がなされるべきであるという結論が出た。そしてその時の野村証券の果す役割を協儀した。9月14日野村証券で平山部長、岡林課長と会い、これらの問題を話し合った。
1.9月6日の会合にもとずき、IASEC計画を野村証券が後押しする。具体的には一週間以内に野村が研修生を引受けてくれそうな20社をあげる。
2.野村証券と深い取引関係にあり、国際感覚のある会社から(20社)5万円を寄付としてもらうことは可能であろう。
3.日経連については、将来全国的な組織になった場合、バックアップしてもらう意味からも、その賛同を得ることが必要であろう。経団連、その他の団体についても、野村を紹介先とし、理解を高めて次第にムードを作つていくこと。
4.企業への接近の仕方については具体的に三通の書類(研修生引受書、賛同書、賛助会員書)を用いてやるのがよい。
上記のような結論が出された。尚20社のリストは9月21日に提出され、野村証券から10万円の寄付をパンフレット出版用として戴いた。同日、日経連に於て前田専務理事並びに事務局総務部長等にIASEGの説明を公式に行った。その結果9月25日の日経連会合に於て、前田氏からIASECの説明を全会員にして戴ぐことになった。この日に予算案、交換計画表も完成した。9月20日にリンドグレンの送別会が銀座東急ホテルで行われる。22日彼は帰国したのである。リンドグレンの働きに対して野村証券は非常に感謝しており、彼の完成した60ページのリポートはIASECの仕事として近日野村証券から出版されることになった。又彼がIASEC- JAPANの確立に際して果した功績ははかりしれないものがある。
9月下旬には経済同友会、国際経営管理協会CIOSにIASECに対する援助を依頼した。一方各大学に於て, LC(大学委員会)強化のため、教授への働きかけ学内での宣伝会員募集など、必要と思われるあらゆる行動が、大々的になされていた。9月25日の日経連での説明会の模様は日経連タイムズ9月27日号に掲載されている。
10月2日、更に経団連の事務局次長花村氏に会い、IASECの説明を行った。そして財政面での助言をして戴いた。10月4日野村証券は20社のリストを我々に与えた。以下の通り
三井銀行、三和銀行、東京銀行、三井物産、富士フイルム、日本ビクター、横河電機、ソニー、リツカーミシン、ダイヤモンド、日通、日本航空、東芝、東洋レーヨン、新三菱重工、味の素、朝日ピール、西武鉄道、昭和電工、津上製作所
これにもとずき、我々は各企業にIASECプランを売り込み、物心両面の援助を要請することに決めた。更に日経連、国際経営管理協会、ダイヤモンド社からも助言・紹介状を戴いた。これらをもとにして、ほぼ10月一杯かけて、日本委員会渉外委員が、日本並びに東京商工会議所、青年商工会議所、各企業にIASEC計画を紹介し、大いなる賛同を得た。
韓国関係としては・冬季体暇中の交換を実現させるために、不二貿易に韓国人研修生を2名引受けて戴いた。

(IASECの基本)
ところで近時とみに学生の海外旅行熱が高くなってきており、その実現のために、企業を歴訪し、財政援助を半ば強要する例が多いということが問題になっている。そのため我々の協会も同種の運動と誤解される危険性も少なくない。だが我々の意図するところは、企業、教授、学生の協力の上に立つ経済外交であり、同時に最近重視されてきた産学協同精神に基いて新しい経済人を養成することであり、又国際的視野に立つた、意欲的かつ非政治的な学生活勧でもある。それだけに我々に課せられた社会的責任は大きい。従って我々はこのことを深く自覚し、まず我々の側に於て、会員の質的向上を図り、組織の強化にその努力を続けてきたことは申すまでもない。特に当協会の永続性に関しては最大限の考慮が払われてきた。我々の活動は、あくまで我々の自主的な運動によって推進するべきものであるが、それだけでは、その発展の途は長く険しいことが明らかになつてきた。そこでなによりも、財界及び学界の各種の援助と助言が望まれるのである。その具体的な形として、次のような意図をもった顧問団の結成が最重要事として再び援り上げられた。 

(顧問団について)
即ち、その顧問団とは我々学生の活動を支援、監督し、対外的・対内的に信用を付し、その永続性と責任め所在を明らかする為に、教授団、財界代表が積極的に参加するものである。よって10月の半ば頃から、一橋大では吉野助教授、板垣教授を通じて高橋学長に、慶応では山本教授及び外事部に、東大では木村学部長に、更に早稲田では中島教授等にお会いし、屡々助言を得た。19月17日には荒木文部大臣と会見、大臣はこの協会の活動に賛同され、出来る限りの援助を約束して下さった。翌10月18日、アメリカ大使館の人物交流副部長マニング氏が同様の援助を我々に申し出て下さった。これらの活動の結果が11月15日早稲田大堂大隈会館に於て、4大学教授(一橋・板垣教援、慶応・山本教授、東大・木村学部長、早稲田・中島教授)の出席の下に顧問団結成準備会議として開かれ次のことが決められた。 
この会合では、大体次のような事が話合われた。一つはこの協会の永続性に関する問題であった。4大学教授の一致した意見は「学生側の組織はかなり強固なものになっている。この上は我々4数授がこの協会に対して顧問としてしつかりした責任を持つという体制が出来れば、この問題は完全に解決するからそのよう努力したい」ということであった。もう一つは当協会の資金を集める方法についてである。これは教授が財界と共に企業にお願いして、資金を集め、その管理を行うことになった。そして山本教授が資金管理の責任者になつていただくことに決った。即ち学生は財政面の問題に関してはなるべく直接携らないことになった。最後に今迄の活動経過報告が確認され今後の活動方針を教授が了承されその成功を期すことになった。まず来年度の研修生交換は20名とし、当協会の来年度の資金として200万円を至急調達する。そしてAIESECに出来るだけ早く正式加盟できるよう、一層の努力を続けることが今後の活動方針であるo

(外務について)
一方外務関係に目を転じると10月10日付で一般報告書を作成して18日にAIESEC加盟国の国内委員会、並びに主な大学委員会又韓国、オーストラリア、台湾の国内委員会へ発送した。また外国人研修生が、来年日本にやってくるよう積極的に勧誘している。

(合同LC大会)
12月20日慶応大学三田校舎で午後1時から第一回4大学合同LC大会が開かれた。参加者約100人、亀田、千沢両人の報告談などを中心に、なごやかに3時間あまりを過し盛会裡に終った。

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理事会・顧問会議結成される!!

12月11日、経団連、日経連、同友会、商工会議所の経済四団体の会合がもたれ、その席上IASEC- JAPANのための顧問会議結成について討議が行われた。その会には我々からは一橋の板垣教授、学生数名が出席して、我々が顧問会議をいかに必要としているかを説明した。しかし、団体側は現在のIASECの体制は責任の所在が明らかでないとして参加大学の教授による理事会の設立を強く要求した。
我々はその要求にしたがい、規約改正して12月19日神田一ツ橋の如水会館において四大学の先生の出席を見、木村東大学部長以下8名の理事からなる理事会の結成が成功したのである。
したがって、経済四団体側もこれに満足し12月20日の会合において下記の如き顧問の選出を見、会議が結成されたのである。

<理事会>
会長   木村重義(東京大学経済学部教授・経済学部長)
常任理事(会計担当)  山本 登(慶應義塾大学経済学部教授)
常任理事 板垣與一(一橋大学経済学部教授)
常任理事 中島正信(早稲田大学商学部教授)
理事(選衡担当) 鈴木保良(慶應義塾大学商学部教授・商学部長)
理事(選衡担当) 柳川 昇(東京大学経済学部教授)
監事 小泉 明(一橋大学商学部教授・学生部長)
監事 河辺 貞(早稲田大学政治経済学部教授)

<顧問会議>
顧問 前田 一(日本経営者団体連盟専務理事)
顧問 堀越禎三(経済団体連合会常務理事・事務局長)
顧問 山下静一(経済同友会常任幹事・事務局長)
顧問 高城 元(日本商工会議所/東京商工会議所専務理事・事務局長)

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LC活動報告
<一橋大学> 顧問:板垣教授
9月24日 後期LC結成。委員長に山田を任命。会員の知識向上、意欲育成を図る。9名参加。
10月15日 前期LC説明会。17名参加。
10月22日 一橋全会員で資料の勉強をする。毎週月曜日定期集合を行うことを決定。
11月7日 高橋学長、板垣先生と討議。
11月14日 LCの第一回コンパ
11月19日 部室の獲得に成功(本校内)。現在会員数は総数36名(4年2名、3年13名、2年
  8名、1年13名)である。

<東京大学> 顧問:木村経済学部長
9月15日  東大LC発足。委員長藤田晋作。対外用住所を東大学生課教養掛気付とす。
11月7日   2年生対象に入会勧誘説明会
11月12日 今後のLC活動を討議す。
11月21日  新入会員歓迎コンパ。
11月28日 2年生再募集の為の説明会。
12月7?9日 第1回LC合宿、於宇佐美。
寮新会員に対する諸知識の付与、英語の訓練。来年度の活動方針、組織決定。
現在会員数は、3年7名、2年13名、総数20名です。

<慶應義塾大学> 顧問:山本経済学部教授
9月   LC三田結成9名。委員長金子正人。会員強化を配慮。
10月3日  日吉で説明会。入会56名。
10月11日  第一回LC総会。自己紹介。
10月15日  第二回LC総会。活動報告。
10月19日  第三回LC総会。
10月26日  第四回LC総会。亀田のホンコン報告。英会話の件相談。
11月1日  今後のLC活動を討議。毎週火曜日に日吉で会合を決定。
11月20日  第五回LC総会。千沢の西ドイツ報告。活動報告。
12月2日  第一回LCコンパ。
   現在会員数は総数52名(4年1名、3年10名、2年15名、1年26名)である。

<早稲田大学> 顧問:中島教授
9月   中島教授以下大学院生により研究。
11月 大学ESS内に併設。宣伝、継続性、語学等に主力活動。組織の永続性のため、現
役学生より幹事採択を決意、実に800人の学生集まる。規約設定、組織化に重点。委員長は大駒勲
12月7日  大学院生、現役幹事と顧問の中島教授と会談。
  現在、仮幹事数大学院4名、4年3名、3年10名、2年20名。

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<研修はどのように行われたか>

研修生は企業でどのような研修訓練をうけるのか。これは研修生にとっても、受入企業にとつても、最も関心のある問題であろう。そこで、本年来日した外国人研修生及び海外へ留学した日本人研修生の場合を考えてみることにしよう。

…外国人研修生の場合…
三菱銀行で研修訓練を受けたベツカーの研修計画は以下のようなものである。
8月27日?8月29日(本 社):銀行業務に於ける通貨の国際交換性について
8月30日?9月12日(調査部):日本経済の現状及び日本経済のEEC対策
8月13日     (日興證券):日本に於ける株式市場
8月14日?8月22日(業務部):マーケティング及び広告業務
8月24日?8月25日(総務部):長期業務計画
8月26日?8月28日(事務部):企業合理化(計画)
8月29日     (審査部):造船業に対する融資について
10月1日?10月6日(支 店):銀行業務及び企業の概観
10月8日(トレーニングセンタ):行員教育の概観
10月9日?    (支 店):対企業銀行業務の概観

リソドグレソの場合は、引き受け企業である野村証券が、彼を海外企画課においた。そこで、今まで野村証券がつくった海外投資家向けの日本証券市場についてのレポートとアメリカからとりよせてあったアメリカ証券市場制度についての資料の両者を用いて、その比較論を60頁の論文にまとめた。これはIASECの仕事として、野村証券から近く出版されることになっている。

…外国人研修生滞在日記…
「リンドグレン日記」
7月14日 羽田着YMCAに宿泊
18日 野村証券で上司に紹介、研修計画打合わせ
18?20日 一橋大生宅に寝泊り、(日本の実際の生活を経験する為)
21日 トーマス送別会(YMCA)
22日 研修開始
8月上旬 鎌倉見物
18日 岡本宅で花火見物を兼ねてパーティー
25日 椿山荘でリソドグレソ、ペツカー歓迎会
下旬 富士登山
9月上旬 野村証券から関西旅行
20日 送別会(東急ホテル)
22日 帰困のため羽田見送り
この聞、随時各大字メンバーと懇談、常任委員会出席。

「ベッカー日記」
8月24日 マルセーユから横浜着
25日 椿山荘で歓迎会
27日 東京の地理案内
9月20日 リンドグレン送別会に同席(東急ホテル)
下旬?
10月9日 三菱銀行でのスケジユールに従って関西旅行
13日 東大メンパーと箱根山へ
18日 送別会(東京茶房)
20日 帰国のため横浜見送り(船で横浜?ウラジオストック、そこからハバロフスクまで汽車、ハバロフ
     スク?コペンハーゲンは飛行機で、その後汽車でパリまで)
この間、随時各大学のメンバーと懇談、又三菱銀行から箱根、熱海にも行っている。

…日本人研修生の場合…
久保田(一橋大)は、アメリカ合衆国ポートランド市のポートランド・パブリック・ドックスという会社に行き、始めの3週間は各部門を転々と見てまわり、その後希望部門に配属され、現在リサーチ部でポートランドと日本との貿易量の変動原因分析を研究中。その間、市議会見物をレたり、見学旅行したり、見学旅行したり、ポートランド市長から名誉市民のカードを贈られたりした。その他、時々昼食会にも出席。研修期間は6ヶ月、来年1月に帰国予定。
 宮脇(東大)は、イタリアのナポリ旅行社で研修を受けながら、日本のAIESEC加盟に奔走中。
 千沢(慶大)は、西ドイツのジーメンス・アンド・ハルスケ・エイ・ジーで7月末から10月初旬までの2ヶ月間研修を受けた。研修部門並びに関係書類の解説を聞いたあと、始めのうちは輸出輸入課へ、次に販売課で簡単な事務整理をした。研修時間は7時半から4時半までで、大学委員会の主催した市内見物、工場見学に参加、その間前後二回国際親善の集いで、8月1日から5日まではベルリンでベルリン問題討議、市長会見、バーテイーに、9月5日から30日までミユンヘンへの研究旅行に各々参加した。
 亀田(慶大)は、8,9月の2ケ月間ホンコンのジヤーデイン・マセソン・アソド・カンバニー・リミテツドという英国系の総合貿易商社で貿易実務一般を班修。研修は一対一による講義方式で、一週間単位で各部門をまわった。月曜日は見学の日で割当部門のアウトラインを把握するために、ほとんど全ての地位の人に会い、オフイス・倉庫・関係会社・工場・船などを見学した。火曜日から金曜日までは部長から事務員に到るまで多くの人から講義を受けた。主にその人が扱っている仕事の内容の説明、書類の使用法、問題点などを聞いた。亀田君が研修を受けた部門は次の通り;
保険部、輸入部、中国貿易部、通運部、ジヤデイソ建設会社、綿花部、茶道、空気調整部、ハリーウイキング会社(系列会社)九竜支店。
土曜日には、その一週間のレポートをまとめて、それについて部長と討論があった。その後、書き上げたレポートをその部長に提出、検覧の後、人事部長にまわされ、研修終了後まとめて返却された。

<1963年度研修生交換計画>

IASEGの主活動は、参加37ヶ国245の大学を通しての、企業留学であります。1962年度は、世界3900余りの企業へこれらの大学院、学部学生が相互的に留学し、各々平均3ヶ月程度の研修を受けました。日本からは、計画初年度の試験的交換として、ナポリ銀行(イタリー)、ポートランド・パブリック・ドックス(アメリカ)、ジーメンス(西独)、ジャーデンマセソン(香港)へ東大、一橋大、慶応大から学生を派遣し、野村証券、三菱銀行にアメリカ、ドイツから研修生を迎え、多大な成果を修めました。その本格約活動の初年度としての1963年度にはIASEC日本委員会は、以下のような交換計画を目標としており、日本側企業による若い優秀な外国人研修生の受入れを希望しております。交換は交換学生受入準備書G.E.(注:グリーンフォーム)、交換学生志願書B.F.(注:ブルーフォーム)を用いて相互的に行われますが、IASEC日本委員会は、日本側企業による下記国あてのG.F.記入を20枚必要としており、御協力をお願いする次第であります。
ヨーロツパ7(イタリア2;ドイツ3;フランス1;イギリス1)、アメリカ7(西海岸3;中部2;東海岸2;アジア6(韓国2;タイワン2;ホンコン1;フィリピン1)
1)日本側企業によるこれら諸国からの研修生受入準備書は、1963年4月にアメリカのプリンストン大学で行われる会合で、相互的に交換され、各企業の希望する資格を持った候補者が各大学委員会によって選衡の上に推薦されます。従って研修開始期間は、多くの場合、1963年7月頃になる予定です。
2)アジア諸国との交換は書簡によって行われ、確定した期限はないものと考えられます。

渡航手続きと旅費問題

<渡航手続>
交換学生志願 → 選衡委員会 → 受入企業決定 → 外貨持ち出し申請(日本銀行に渡航申請書、学長推薦状、親の同意書、渡航理由書(目的)、誓約書)→ 日本銀行からの許可がおりた後 → パスポート申請(外務省に戸籍抄本1通、写真2枚)→ ビザ申請 → 予防注射(種痘、コレラ:代金1000円)

<旅費問題> $1 = \360 ?1= \1,008
(船舶) 日本?アメリカ西海岸: $280 日本?ボンベイ:$131
日本?オーストラリア:$87 日本?ホンコン:$32
日本?マルセイユ:$120     日本?釜山:$7
(航空) 東京?ロンドン:$677.6 東京?シドニー:$453.6
東京?サンフランシスコ:$435 東京?ニューヨーク:$554
東京?ホンコン:$152.2 東京?台北:$106.4

1963年度の日本委員会予算は、200万円でした。

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アーカイブスの資料をお願いします

『AIESECアーカイブス』のための資料をお願いしましたが、早速、早稲田LC/64の黒木美芳氏より大変に貴重な写真を送って頂きましたのでご紹介します。
1962年2月末、AIESECを日本に紹介するために来日していたIAS(International AIESEC Secretariat)の元Ssecretary Generalだったドイツ人学生のバーン・トーマス君が早稲田大学に突然現れ、話を聞いた中島正信先生(後にアイセック日本委員会理事)はその日に予定していたゼミ(世界経済・中島ゼミ)の宴会に彼をご招待しメンバー全員で歓待した時の写真です。まさにAIESECが日本の学生にはじめて紹介された記念すべき日の貴重な写真です。

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中央の2人は故中島正信先生とバーン・トーマス。2人を囲んでいるのは修士課程修了を目前にした中島ゼミの先輩たち。中島先生の隣は町田先生、その隣は故大槻聡幸氏(早大LC/63)で右隅に小さく控えているのは修士課程入学を控えていた黒木さん。

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AIESEC アーカイブス

OBAIESEC事務局では、AIESEC-JAPANの歴史的資料をデジタル化して後輩たちに残すべく、設立当初から今日に至るまでの貴重な資料や写真を集めています。現在、設立当初のAIESEC-JAPAN
NEWSなど古い資料を安井隆豊氏(一橋LC/1964)よりお借りしてスキャンしている最中です。また、寺西忠勝氏(同志社LC/1967)からは、1966年に実施しました「日独特別交換」の時の京都ツアーやオリエンの写真、冨田悦男氏(早稲田LC/1967)からは、1964年夏に長野県戸狩で行われた早稲田LCの夏合宿の写真を送っていただきました。

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これらの貴重な資料や写真は、今、皆様のご協力を頂いてデジタル化しておかないと10年先、20年先に纏めようとしても不可能になると思います。来年早々には、当ホームページ内に「AIESEC アーカイブス」というコーナーを作って、これまでのAIESEC-JAPANの歴史をOBAIESECとAIESECとで共有出来るようにし、2007年の45周年、2012年の50周年に向けて完成させていきたいと思っています。
皆様の現役時代のアニュアルレポート、研修報告書、様々なプロジェクト報告書、新聞・雑誌の掲載記事、様々なイベントの際の懐かしい写真など、是非ともご協力頂いて残していきたいと思っております。お借りした資料、写真は必ずOBAIESEC事務局が責任を持ってお返し致しますのでご協力のほどを切にお願い申し上げます。

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研修の思い出-1

OBAIESECerによる研修の思い出をご紹介します。先ずは、第1回目として千澤忠彦氏(KOLC/1964)のレポートです。下記のリンクからお読み頂けます。
研修の思い出(1)

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